道育

世の中では有名でなくても偉い人といわれていない人でも立派な方がたくさんおられます。市井の賢人や偉人、あるいは聖人ともいうべき人がおられます。その方々の生き方や言葉には、知恵だけではなく魂が宿っていて心を深く打つものです。

人にはそれぞれに気づいたり学んだり発見したりとタイミングがあります。そのタイミングは、鳥の雛が卵から産まれ出ようと殻の中から卵の殻をつついて音をたてた時、それを聞きつけた親鳥がすかさず外からついばんで殻を破る手助けをする啐啄同時と同じです。

求めているときに、絶妙な手助けがある。これはまさに一緒に学び合い育ちあう関係だからこそ実現するものです。

そう考えてみると、これはすべての生き物に当てはまることです。植物であっても、種を蒔いても芽が出るかどうかは種によります。いくら雨が降っても、求めていなければ芽吹くことはありません。また季節のこともあり、栄養なども同じです。昆虫も等しく、それぞれがそのいのちの成長に従って適切に与える存在があることで啐啄同時は存在することができるのです。

今の時代のように、詰め込み教育や放置教育ばかりをしていたらこの啐啄同時のことはわからなくなるでしょう。覚えないのは単に勉強不足と思うようになり、できないのは指導者やその環境が悪いからとなるのかもしれません。

本来、教育というのは道の中にあるものです。志を持つ者同士が、どのようにその道を歩んできたのかを訪ね、そこにお互いに必要な知恵を分け合います。またそれぞれの徳性や性格、そして才能や感性などの異なりもあり適切にアドバイスをし研鑽する方法を導いていきます。

それぞれに道で学んできたことがありますから、お互いにその道を語り合い学び合うときに道がまた拓けていくのです。教育というのは、本来は道育であり、自然と共生して存在するようなものです。

子孫のためにも、あるべき原点を学び直しながら新たな道を拓いていきたいと思います。

道の歩き方

天命と人道というものがあります。これは天はそのまま命であり、人はそのまま道であるともいいます。天地自然と人間社会の中で生き活かされている私たちは、その両輪を暮らしの常としています。

そもそも天命というものは、俟つことしかありません。これはその人に命じ与えられた命令であり役割とも言えます。不思議ですが、天命というのは自分の真心や素直さに応じて、またその時々の純粋な喜びによって感じ得るものです。別に運命とか宿命とかもいいますが、結局は天命は自分ではどうにもならない事実のことです。その事実は事実そのままですから諦めてはじめて真の事実を直感できるものです。自分は他人ではなく、自分にしかない人生を生きるのなら人はみんな自分に正直に自分の天命に従うことしかできません。

全ての生き物は、その天命を感じて自然と歩んでいます。この自然というものが天命というもので、それを古来日本では「かんながら」とも呼びます。日本人の持つ自然観は、この自然に逆らわずに応じて天命のままにあるがままということでしょう。

そして道というものは、人間の道です。これは思いやり助け合うという徳で結ばれた繋がりによって仕合せを生きることです。みんなの喜びが自分の喜びであり、自分の喜びがみんなの喜びになるように世の中が安寧に安心して平和であることに向かっていこうとすることです。これも不思議なことですが、人間は(というよりすべての生き物)はみんなで助け合い生きることを最初から具わって生まれてきます。分類わけされた生命ではなく、すべての生命は全体が調和し循環することを通してみんなで助け合い思いやり生きようとすることです。

絶滅なども求めてはなく、みんなで地球の中で循環して暮らしていこうとするのが生きる道なのです。その最たるものとして、人間はみんなが仕合せになるようにと頭で考えて取り組んできました。それが道の極み、つまり人道だったからです。人道とは、シンプルに言えば徳の政治を行うことでありみんなが如何に助け合い思いやり仕合せで暮らしていくかを実現していくことです。自他一体、全体快適を目指して生きてきたともいえます。

今の時代、人道が廃れたといえる理由は徳が循環をやめ、生き物たちは日々にこの瞬間も絶滅を繰り返しています。これは天命の問題ではなく、人道の問題です。この天道と人道というものは、本来は表裏一体です。

人道もまた私利私欲を諦めることによって、本来の自分に目覚め真心に従うと素直になり謙虚になって人は優しくなるものです。つまりこの天と人には共通の道があるのです。

人事を盡して天命を俟つことも、天命を盡して人事を俟つことも道の歩き方の格言です。この世も人も、本来は知識などなく知恵もありません。本来はそのままあるがままに存在しているだけです。実体などなく、何もない、しかし何かあるように私たちは生きていきます。

悟ることがゴールでもなく、単に人は歩んでいるだけですがそこに確かな道なるものは目には見えにくくなてきたとしても普遍的に存在します。この普遍的な道をどう歩むかということだけは、途切れることはなく確かに存在しているのを感じます。それを志とも言い、この心のままに生きる道は無窮で無限ということかもしれません。

今の時代もまた先人たちの時代の集積によって今の道に続いています。これから新たな道を辿るのに問題解決をするために発明するのも大切ですが、後かたずけや方向転換なども同じくらい重要になります。今を生きてきた連続にある今が道である以上、私たちは道を振り返り、またこれからの道をどう歩むかを一人一人の覚悟で決めていくしかありません。私も私なりのかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

真の自立

私たちは暮らしを通して、何をもって自立しているのかということを考えることができます。例えば、お金に依存しているのか、あるいは権力に依存しているのか、権威に依存しているのか、それはその人の生き方からもわかります。知らず知らずのうちに、私たちは依存していることを勘違いしてそれを自立と思っていたりするものです。

産業革命以降は資本主義経済がグローバリゼーションの名のもとに、世界の隅々までいきわたりました。経済に依存する仕組みは、地域のあちこちにまで蔓延しそれまで自然と共生して生きていた人たちまでも経済に取り込まれていきました。その結果として、人類のほとんどがお金を中心にした経済に依存していきました。

今では、お金がないと生活していくことすらほとんどできません。ほんの少し前まであったような身の回りの自然がつくってくれた利子をみんなで分け合いながら生きるといった自立は消えてしまいました。

日本では、働かないこと税金を納めないことは軽犯罪のように扱われ必ず経済に依存しなければ存在すらも認められないほどです。気が付くと、経済に依存しなかった文化や伝統はほとんど消えてしまいました。何らかの経済に依存することが、その文化や伝統を認めるための条件になっています。そうしているうちに純粋なものや純度の高いもの、お金や経済とは無関係であったものが濁り澱み、本来の真理そのものではなくなってきました。

例えば、利益が出ないものは自立していませんから本物風でもいい、多少それっぽく説明して嘘のようにならなければいい、あるいは見た目だけでも同じであればいいとまで変化しています。こんなものは先人の遺してくださった伝統文化を真に伝承しようと志した人たちならすぐにわかりるはずです。食品であっても、時間と手間暇がかかるものはほとんどなくなりました。気が付けば、名前は同じでも工程を省き、添加物で胡麻化します。他にも挙げればきりがないほどで、もはやこの世の中で接するものは本物がどれかもわからない始末です。

現代の人間の進化というものは、果たして本当に進化と呼べるものなのか。核兵器をつくり、AIや金融をさらに経済の依存に活用して誤魔化すことばかりを繰り返していく。むしろ人類は大幅に退化しているのではないかと気づくはずです。

しかし地球や自然の中に住んでいるのですから私たちは何をもって真の自立をするということなのかということに、向き合うときが必ずやってきます。この経済の依存の仕組みを考案してから約300年くらい自然から離れ、お金に依存し、時間をかけて人間を分断していきました。今では材料になるネタが尽きて静かだった戦争が音を立てて激しい戦争へと様変わりをはじめています。

むかしは経済のことは経世済民といわれ、徳と財は一致して暮らしの中で恩が循環していた世の中はほとんど崩壊して久しくなり徳はもう見えません。経済によって物質化した社会の中では目に見えないものは排除されていきました。本来の人の間の自立は相互扶助であり互譲互助です。それが単なる経済の道具になってしまい、助け合いや道徳も経済がなくてはできなくなりました。経済が最も奪ったものの一つがこの人徳というものかもしれません。

私たちが真の自立を目指すためにはまず自分が何に依存しているのかに気づくことからのように思います。そしてその依存のバロメーターこそが、「暮らし」であると私は思います。この暮らしは単なる日常生活のことをいうのではなく、何と共生しているか、自然や徳とどう結び合っているのかという実践のことです。

経済にどっぷり依存した暮らしのスタイルのなかでの暮らしは、アラスカでも大都会のような高級なセレブな生活を持ち込めることになっていたり、ホテルに宿泊しても自分の好き勝手にライフスタイルを保てますよというものが今でいう暮らしになっていたりします。これなどは完全に経済に依存している偽の自立そのものとはいえないでしょうか。

自然と共生してきた自立は、軸足は常に自然と共にありますから経済がさらに潤沢に増していくだけで自然の破壊はさらに進んでいくだけです。田舎を再生しようと、地域創生などといっては経済を持ち込んできますがそんなことを繰り返していたら人間は経済によって全滅してしまうかもしれません。

私たちはそろそろ軌道修正して大きな災難が訪れる前に、子どもたちや未来世代のためにも少しずつでも変えていこうと努力や忍耐、苦労を厭わずに挑戦するときが来ているように思います。それは暮らしを変えていくという挑戦です。一人一人が、みんな小さな暮らしでも変えていけばそれが長い年月を経て、偉大な変化になっていきます。

愚かなことのように思えても、むかしからそうやって先祖や先人たちは徳に報い、恩を譲ってきてくださったように思います。まずは自分から真の自立を目指して暮らしフルネスの挑戦を続けていきたいと思います。

別の道

歩くことを深めている最中に、骨折をして歩けなくなってしまいました。一本歯下駄を履いて宿坊の石階段や湿った土をうまく歩けずそのまま倒れてしまい身体を支えていた脚の甲の骨がパキンという音と共に折れてしまいました。

骨折は40年ぶりで驚きましたが、それよりも遊行をはじめてあと90キロほど残っているところで歩けなくなるという状況に驚きました。同時に、今月は友人や同志たちの文化伝承の行事のお手伝いにいく予定だったのと一緒に歩くのをサポートしていただく方々に申し訳ない思いです。捻挫や簡単な骨のヒビくらいなら歩こうとしましたが、医師からは完全にストップされ安静にしています。

これも遊行の醍醐味と、遊行は引き続き深めながら歩くことの有難さ、そして日常を支えてくださっているあらゆるものへの感謝を感じていきたいと思っています。

そもそもこの一本歯下駄は天狗下駄とも呼ばれ山伏や僧侶などが山で修行を行う際に履いていたとされ、それは山の傾斜を上り下りする際に大変便利であったためだと考えられています。大地に対しで平行に保つのにはこの1本が歩きやすいのです。ただ、横移動など、難しく私の場合は高い段差と横移動と杖がうまく調わずに倒れてしまいました。治ってからまた履くのは少し不安になりますが、下駄の問題ではないので色々と丁寧に向き合ってみようと思っています。

人生は思い通りにならないことの連続です。道を歩めば、歩けなくなることもあれば走れなくなることもある。橋が濁流で流されることもあれば、見失い迷子になってしまうこともあります。それもまた道ということでしょう。

目的地がなくなるわけではなく、別の道があったり、今は休めと言われたり、あるいは新たな道が観えてきたりと道は無窮です。

歩くことは少しお休みし、治療を優先しては別の道を辿ります。どの道も諦めなければ面白い道に出会い目的地に近づきます。子孫や未来世代のためにも、体験を活かして学び続けていきたいと思います。

歩こうとすること

先日の遊行を通して歩くということを改めて考え直しています。現代は交通機関が発達し田舎でも車社会になってほとんど歩くことはありません。この歩くというのは、単に二本足で移動するということのほかに、自然に帰るということがあるように思います。呼吸をするように、本来は人間は歩く動物です。犬も猫も、あらゆる生き物はそれぞれに歩くことを已めません。歩くというのは、生きるということであり道を歩むということもあります。

例えば、私たちの身体は重力によって支えられています。無重力で歩けとなると今のように歩くことはできません。そう考えてみれば、私たちは歩くことで筋肉や骨、血液からあらゆる肉体の機能が活動し調うようにできています。

じっと動かずに寝ていたら人間は筋肉が固まってきます。寝返りも打たなければそのままでは問題がでてきます。つまりいつも体はこの地球の重力と連動して今の状態を保っているということになります。

よく変な姿勢を続けたり、座り続けたりするとのちに神経痛や骨格の病気になったりします。これも歩くことで調えていれば予防できるようにも思います。

つまりは私たちは静止しているよりも、歩くことの方が本来の中庸を保ち、自然の一部になりやすいということになるのではないかと思うのです。

また歩くことで呼吸も整い、歩くことで全身の筋肉をほぐしていきます。その調和の状態は当然、脳にも心にも大きな影響を与えるように思います。そしてその時、私たちは脳で考えるのではなく身体で考えるようになるのです。

身体で感じたことを頭で気づくときに、人は全身全霊で妙智にたどりつくものです。歩くというのは、歩こうとしないと歩けません。この歩こうというのは、考えようと思うことです。この考えようとするのは、真理や本質に辿り着こうとするものです。

歩くというのは、それだけ考えることと一体でありその中で感じ合うものかもしれません。引き続き、遊行を通してさらに一歩ずつ丹精を籠めて歩いていきたいと思います。

家に選ばれる生き方

現在、古民家というものはあまり価値がないものになっています。特に日本では、土地の方が価値があり家の方はほとんどは価値がないと売買されているところがほとんどです。産業革命以降、家もまた物質の一つとなってしまい本来の家の持つ意味や価値も変容していきました。

もともと、建物は単なる物ではありません。そこには場があり、いのちの宿り、私たちが生きているように家もまた一緒に生きています。私たちが家に帰れば安心するのは、生きている家に住んでいるからです。「ただいま」と「おかえり」とあいさつをします。この言葉は、武士の挨拶が語源だといわれます。

「よくご無事でお帰りなさりました」そしてまた、「いってきます」と「帰ってきます」を合わせ、”今から出かけます、そして帰ってきます”と再び帰って来ますという意味が込められた言霊だともいいます。

家は、出発点であり終点でもありいつもそこに自分が居るという只今の場所でもあります。それは単なる持ち物ではなく、自分の心身の置きどころでありいのちの根があるところともいえます。

私がお手入れし共に住む家は、どこも深い歴史を持っています。その先人たちや先祖、そして地域の中で大切に建っている場所を丁寧に調えて暮らしを紡いで伝承しています。

これは単に家を買い取ってリノベしてオシャレに改装して、それを転売しているのではありません。そこに流れている縦の文化、そして暮らしの伝承を継続して前よりも美しく磨いて未来世代へと紡ぐために行っています。

仲間が増えていくことは有難く、単なるモノ好きな人ではなく純粋な伝承者が集まっていくように家もまた人を選び、そして人もまた家に選ばれて磨かれていくのです。

資格というのは、今は誰かが基準を決めて評価されて有資格者になりますが本来は家がその人を選び、選ばれた人がそこで暮らしを磨いていくことで真に資格のあるものに変化していくものです。

私の言うお手入れとは、そういう日々の暮らしの中の伝承を通して徳を磨き、その家やその場所に相応しい人になっていくための修養の一つです。

故郷にはまだまだ先人の遺徳がのこっています。未来世代が少しでも豊かな心が伝わっていくように、伝道していきたいと思います。

暮らしの中の遊行 2

昨日は、英彦山の豊前坊から山国の豊前坊屈まで約25キロを遊行しました。急遽、イタリアの舞台芸術家も飛び入りで参加することになり道中の豊かさが増しました。特に、大雨や強風、そして倒木など悪路のなかの遊行でしたが時折、応援にかけつけてくれた友人やお手伝いしていただける方の御蔭さまで心地よく暮らしを味わっています。

そもそも日本人は元来、暮らしを通してあらゆる芸術を生活文化の域において達していたものです。特定の芸術家がいなくても、人々は暮らしの中でその芸術のすべてを豊かに享受されてきました。例えば、民藝、手仕事などはほとんど芸術品です。あるいは、古民家一つとっても生活の中で如何に豊かに遊んでいたかがわかります。

私たちの美意識というものは、すでに暮らしの中で醸成されており、たとえ厳しい自然や政治的な貧困や戦争があった時であっても、茶道であったり、踊念仏であったり様々な創意工夫を通して暮らしの中の知恵を発揮してきました。

私が取り組んでいるものもまさにこの暮らしの中のものです。暮らしフルネスというものは、そのすべてを暮らしの中で実現させていくということに他なりません。宗教でもなく、哲学でもなく、特別な資格も必要ではなく日々の暮らしの中で自由自在に遊ぶのです。そういう人物のことをむかしは仙人と呼んだのかもしれません。現代の仙人はどこにいるのか、私は暮らしを楽しむ中にこそ存在しているように思います。

遊行というのは、今を味わいつくすものです。これを禅では三昧ともいいます。今を味わいつくすという境地はどこにあるのか、それは日々の暮らしの中にこそ存在します。私が「暮らしの中の」というのは、この今を連続する日々の生死の呼吸の瞬間瞬間にあるということをいいます。そしてその瞬間瞬間のことを遊ぶといいます。子どもたちが、好奇心で遊んでいる姿の中にこそすべてを捨てて天命を生きる歓喜を感じます。

遊行の喜びは、一期一会の喜びということでしょう。

しかし、道を歩んでいくのは一つ一つの執着との正対でもあります。あれやこれやと妄念や妄執もでてきますが歩みを進めていくなかで様々なものがそぎ落とされていくものです。そして、一緒に歩く人たちの清々しさを分かち合うものです。

旅に持っていけるものはほんの少ししかありません。秋の静寂と山粧う景色と枯れた音と侘びた風に心も吹かれます。

徳が循環するのを肌身で三昧しながら、暮らしの中の一生を先人たちと共に伝承していきたいと思います。

教え導く

昨日は、英彦山守静坊の前当主である故長野覚先生の高校教師時代の教え子たちが50年ぶりに宿坊にきて同窓会をされました。恩師のお墓参りとご供養とあわせてみんなで集まり宿坊で会食されました。

高校時代のアルバムを見せていただきましたが、皆さん今もむかしも素敵なお顔でお互いを思いやりながら宿坊までの遠い道をはるばると訪ねてくれました。

こうやって同窓会で集まれるのは長野先生が素晴らしい先生だったからと仰っていたこと、そして長野先生を悪く言う人は一人もおられなかったと仰っていたこと。実直でどんな生徒にも保護者にも誠実に見守り、とても面倒見がよかったと仰っていたこと。温かい思いやりのある人柄を感じました。

私は生前の長野先生のことをあまり存じ上げておらず、お亡くなりになってから人づてに人柄や功績、生涯をかけて取り組んでこられたことやそのお仲間の存在などにご縁によって気づかせていただきました。

みなさんからの言葉で生前とても徳の高い立派な方であったことが伝わり、その御蔭でそれぞれの人生が善くなったというお話をお聴きすることばかりです。

もともと代々、この守静坊は宿坊の坊主として何百年も前から人々を教化してきました。この教化というのは、「教導化益」の略称で、徳をもって人々を正しく善に導くことを意味します。 この教化は自らの体験、実践する姿をもって相手を導くものであり強制は行わないといいます。仏陀が、自然に人々を仏道に導いたように生き方を学び、その生き方から善を薫風されたのです。

道元禅師が、故人いわく 「霧の中を行けば覚えざるに衣湿る〟. よき人に近づけば、覚えざるによき人になるなり 」といいます。

環境が人を導き育てるのですが、その環境をつくるのもまた人であるということでしょう。善き指導者、先生と生徒が共に徳を磨き合い、一期一会の場をつくる。

そこには宗教者だからではなく、有資格者だからではなく、名声や肩書や権威があるからでなく、人々を教化するために自らの徳を磨き上げていこうとする生き方と志、そして覚悟があるようにも思います。

何をもって元来そなわっている人のもっている善徳を伝承するといえるのか。私は道元禅師の「水鳥の 往くも帰るも 跡絶えて されども道は 忘れざりけり」を思い出します。

私は守静坊や長野先生のご遺徳を偲びながら、この守静坊のもつ道や環境の意味を深く見つめ直しています。

ありがとうございました。

捨聖の甦生

空也上人の生き方に憧れて遊行を実践した人物に、一遍上人がいます。この人物は鎌倉時代の方ですから空也上人が逝去されてから270年後の人物になります。一遍上人特に止住する寺をもたず、一生涯全国を巡り、衆生済度のため民衆に踊り念仏をすすめ、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)、捨聖(すてひじり)といわれた方です。

その一遍上人が門人への説法で空也上人がどういう人物であったかを語られています。そこには、こうあります。

「また上人、空也上人は吾が先達なりとて、かの御詞を心にそめて口ずさび給ひき。空也の御詞に云(いわく)『心無所縁(中略)譲四儀於菩提《心に所縁なければ、日の暮るるに随つて止まり、身に所住なければ、夜の明くるに随つて去る。忍辱の衣厚ければ杖木瓦石を痛しとせず。慈悲の室深ければ、罵詈誹謗を聞かず。口に信(まか)する三昧なれば、市中もこれ道場。声に随ふ見仏なれば、息精即ち念珠なり。夜々の仏の来迎を待ち、朝々最後の近づくを喜ぶ。三業を天運に任せ、四儀を菩提に譲る》』と。

木造空也上人像にある、口から迸る六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の実践とはこのような遊行の姿を示されたことがわかります。暮らしの中で、生き方として念仏の生き方を実践されたことが何よりも尊いと感じます。遊行のなかで如何に暮らしの徳を磨いていくか、まるで仏陀のような生きざまに感銘を受けます。

またこうもいいます。

『求名領衆(中略)更盗賊怖《名を求め衆を領すれば身心疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界なきにはしかず。称名して万事を抛(なげう)つにはしかず。間居の隠士は貧を楽とし、禅観の幽室は静なるを友とす。藤衣・紙の衾はこれ浄服、求め易くして、さらに盗賊の怖れなしと》』

閑居で暮らせば貧も楽しく、座禅のように暮らせば静寂であることが仕合せである。シンプルな衣装や紙の袋は手に入りやすく清浄である、それに盗賊に奪われるものもないとあります。

「上人これらの法語によりて、身命を山野に捨て、居住を風雲にまかせ、機縁に随て徒衆を領し給ふといへども、心に諸縁を遠離し、身に一塵もたくはへず、絹帛の類を膚にふれず、金銀の具を手に取る事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠をみがき給へりと云々。」

このように空也上人は、いのちは山野に捨て居住を持たず云々とあります。つまりは、色々なものを手放してそぎ落とされて顕現した徳そのものの姿があったように思います。

今の時代でも空也上人のような生き方ができるでしょうか。この時代のことに思いを馳せてみると、政治的な宗教が盛んな世の中で民衆の中で何も持たずにただ遊行している姿で歩んでいく僧がいる。

文字も読めず学識もそんなにない民衆に、さらにいうなら言葉も異なり地域の特殊な文化があるなかで普遍的な徳の生き方を伝道し伝承していく、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでいいと。そして上記のような、六波羅蜜の姿を体現してみせること。

そぎ落とした先にあったのがこの念仏だったと思うと、今の時代でもこれはとても大切なことがわかります。知識をつけて、みんな言葉も文化も理解している世の中ですが苦しみは相変わらず増え、さらに執着や欲望や争いは際限なく拡大を続けています。

手放したりそぎ落としていくというのは、私の言葉では「磨く」といいます。磨いてシンプルにしていくことは、足るを知る暮らしを甦生することになり一人一人が徳に目覚める生き方になっていくように思います。

先人の遺徳を偲び、その道を後から踏みしめながら道を甦生させていきたいと思います。

 

遊行の源流

暮らしの中の遊行巡礼をはじめると、空也上人とのご縁が出てきました。もともとこの空也上人という方は平安時代中期に活躍した念仏僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人(いちのしょうにん)とも呼ばれています。生れは延喜3年(903)とされ、醍醐天皇の皇子とも言われています。

もともと空也上人は、「優婆塞」と呼ばれ、「俗聖(ぞくひじり)」とも呼ばれていました。得度しても僧名の光勝を名乗らず自らは空也の沙弥(しゃみ)を名乗っていたといいます。

「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら道路や橋、井戸や寺院をつくり町中を遊行して乞食し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝承されています。そして遊行のありさまは絵画や彫刻にあるように短い衣を脛高(はぎだか)に着て草鞋(わらじ)を履き、胸に鉦鼓(しょうこ)台をつけて鉦(かね)を下げ、手に撞木(しゅもく)と鹿角杖(わさづえ)を持ち行われていたといいます。この遊行の鑑のような生き方をなさっておられた方でその後の一遍上人などにも多大な影響を与えています。

有名なものに木造空也上人立像があります。死後250年以上経ってから制作されたものですがまるで、目の前にいるかのような一度見ると忘れられない像です。これは運慶の四男 康勝の作といわれます。一様に首から鉦(かね)を下げ、鉦を叩くための撞木(しゅもく)と鹿の角のついた杖をもち、草鞋履きで遊行する姿です。6体の阿弥陀仏の小像を針金で繋ぎ、開いた口元から吐き出すように取り付けられています。

これは「南無阿弥陀仏」の6文字を唱えると、空也上人が阿弥陀如来の姿に変わったという伝承を表しているからだといいます。

六波羅蜜を遊行を通して実践し、それがその時代の人々の心を癒し苦しみを安らげ、心魂を鎮めたのかもしれません。

また私は鞍馬寺に深いご縁がありますが、空也上人が鞍馬山に閑居されていた話も知りました。その閑居していたときに、いつも鳴いている鹿を愛していましたが定盛という猟師が射殺しました。これを知った空也は大変悲しみ、その皮と角を請い受け、皮を皮衣とし、角を杖頭につけて生涯離さなかったといいます。また、鹿を射殺した定盛も自らの殺生を悔いて空也の弟子となったともあります。これは英彦山の伝説とも似ていて共通点があります。そのことから鞍馬寺は浄土教の聖地として発展したといいます。鞍馬山にはその旧跡という「空也の平」という名の場所もあるそうです。

大分では国東に空也上人の開基した興満山興導寺というお寺もあります。また九重町の宝泉寺では空也上人が諸国遊行の途中この場所に経ちより農家に宿泊したお礼として持っていた杖を大地に立てたといいます。その杖がのちの大杉となり、天禄三年(972)この地に大地震がありその大杉が倒れたあと根元より突然温泉が湧出したといいます。そこで驚いた村人たちは、わき出る温泉のほとりに一宇の寺院を建立して空也上人が宝の泉を下さったということで寺を平原山宝泉寺と定 め本尊に空也上人と大日如来を安置したという伝承もあります。

歩きはじめて、まさかのご縁がこの空也上人でした。てっきり法連上人かと思い込んでいましたから、道はやはり歩いてみなければわかりません。引き続き、遊行を深めながら知恵を学び直していきたいと思います。