思いを大切に

人の「思い」というものは受け継がれていくことで洗練され美しく光り輝いていくものです。何代もかけて丁寧に磨かれてきた「思い」は、密度を高め透明度を増していきます。何度も何度も思うということは、「念じる」ともいいますがそれ自体が創り出す場にはその人が受け継がれてきたものが連綿と結ばれ特別な居心地を創りだします。

そしてこの「思い」というものは、純粋であればあるほどに研ぎ澄まされます。言い換えれば、純粋さというものは透明度が高いのです。別の言い方では澱まず澄み切っているということです。

水というものを想像してみるとわかりますが、いくら混濁して不純物と溶けていたとしても非常に長い時間をかけて静かにしていると不純物は下に沈み透明な水が顕れます。あるいは、水源などの湧水が滾々と流れているところはその透明な水が下から湧きがってきます。

この透明な水が出てくるまでにどれだけ長い時を刻み、そして思いを受けたかと思うと水の持つ性質、その徳に畏怖を感じるほどです。

私も人生の経験から、ある人の思いが気が付くと自分の思いになったことがあります。その方が亡くなる直前に譲り渡され、あるいは気が付かないうちに自分の中に思いが写り、交代同化するのです。相手の思いが自分の思いになっているという感覚です。濁りのない澱みのない思いが、純粋な自分の思いと和合します。

人は純粋な思いに共感し、それを応援したくなるものです。なぜなら、その応援は自分の中にも確かに息づいているものでありその思いを受け継ぎたいと願う思いもあるからです。思いが伝播していくのは、思いに共感しあう思いがあるからでしょう。

この思いを育て醸成することは、私たちのいのちの寿命を伸ばし仕合せを編み込んでいくことに似ています。まるで水のように循環をしあい、色々な思いを呑み込みながらも遂には純粋な思いだけをろ過して顕現させていくかのようです。

「思い」を大切にしていくことが何よりも思いを育てます。人からどう思われても、自分にしか感じることがない大切なその「思い」を生きていく人が増えてほしいと思います。子どもたちにも、思いを育て、思いを応援してもらえるように徳を磨いていきたいと思います。

いのちの先生

私は幼い頃から動物が大好きで、子どもの頃の夢は動物園の飼育係でした。大人になっても、衛星テレビのアニマルプラネットなどは一日中見ていられるほとです。犬を飼うところからはじまり猫や鳥など色々な動物と接してきました。動物が当たり前にいる暮らしに心がとても癒されてきました。

しかし動物は私よりも寿命が短く、どうしても先に死んでしまいます。出会ったすぐはとても嬉しく仕合せで毎日ずっと一緒にいては自然のなかで遊びます。そのうち、家族のようになり心を通じ合わせては喜怒哀楽を共にして暮らしの一部になります。後半は病気になったり介護をしたりと、お世話をしてはお別れします。

一生というものは、短く喜びと同じくらいの悲しみもあります。今まで接してきた動物たちは色々とありますが、亡くなる直前に姿を消した犬と猫もいます。不思議ですが、最後にご挨拶というか見送られて去っていきました。通常は見送るはずが、見送られるのです。

愛の深さというか、いのちを共にした存在は静かに見送りこの世を去ります。自然のなかで深く結ばれたからこその静かな愛です。

動物たちの御蔭で私はたくさんことを学んできました。

彼らはとてもシンプルで感情をそのままに伝えてきます。そして心をいつも感じています。私達みたいな文字などの道具は持ちませんが、その分、洗練された持ち味としての個性を発揮します。これも一つの愛の姿の顕現です。

また野生動物たちとの繋がりというものもあります。英彦山の宿坊周辺の生き物も、私がきているのを分かっていて遠すぎず近すぎずに見守り合っています。なんとなく目があえば、音を響き合えば距離感を通して感情を伝えあいます。

他にもメダカなどの魚、農作物たち、そして虫もまた同じ感覚でコミュニケーションをとっていきます。自分の感覚が知識ではなく、深い愛や尊敬を保てばいのちというのは交流できるように思います。

人間がいのちと対話ができなくなるのは尊敬をやめて謙虚さを失うときです。動物たちは私たちのいのちの先生でもあります。

今までいただいてきたご縁のなかに徳があることを実感し、有難い気持ちになりました。これからも動物やいきものたちと共生しながら一生をともに歩んでいきたいと思います。

畜の意味

最近、社畜という言葉を改めて気にする機会がありました。なんとなく世の中で使っている言葉の響きが不愉快だったので調べると家畜を参照して作成された言葉のようです。社畜の意味は辞書を参照すると「日本では社員として勤めている会社に飼い慣らされ、自分の意思と良心を放棄し、サービス残業や転勤もいとわない奴隷と化した賃金労働者の状態を揶揄、あるいは自嘲する言葉」とあります。また家畜を調べると「ヒト(人間)がその生活に役立つよう、野生動物であったものを馴化させ、飼養し、繁殖させ、品種改良したもの」とあります。さらに社員ではなくアルバイトの場合はバ畜と呼ばれ「アルバイトをする学生がバイトに多くの時間と労力を割いてしまう状況を表す言葉」だそうです。

この「畜」という文字の語源は、会意文字で「玄(黒い)+田」の意味で栄養分をたくわえて作物を養い育てる黒い土のことをいいます。この発酵した黒い土がある御蔭で、植物や生き物たちの健康は守られます。

私は自宅で烏骨鶏や犬を飼っていますが、家畜といっても無理やり卵をたくさん産ませようとしたり犬をこき使って働かせようとは思ったことはありません。他にも自然農や田んぼをやっていますが、無理に作物を育てませんしその土を大切にするために農薬なども使ったことはありません。高菜のお漬物もつくっていますが、在来種の種を大切に自家採取してはまたそれを蒔き育て、その高菜で採れる分だけで木樽に寝かせて林の中でお漬物にしています。

私にとっての家畜は、大切な家族で共にこの世で生きていくためのパートナーです。家畜というものを悪いことのようにいうのは違和感があり、その流れで社畜というのはもっと違和感があります。

私は会社の社員のみんなを親戚や家族のように思っています。毎日、顔を合わせては健康の心配、子どもたちや家族や親せきの状態、仕事のこと、暮らしのことを気にしては一緒に語り合い助け合います。みんなで尊重しあえるように話を聴く時間を工夫して確保し、丁寧に一緒に生活の改善を続けています。飼いならすというよりは、みんなで協力しあって暮らしを創っているという感じです。大切にしている畜土(場)は、会社の文化であり、それは連綿と毎日続けて受け継がれてきたみんなの生き方や働き方の歴史が醸成されたものです。社畜という言葉がなぜ悪く言われるのだろうかと不思議でなりません。

結局、この言葉の意味の変遷は時代的な価値観として「いい会社かどうか、いい家庭かどうか」のその話をしているということでしょう。悪い意味でつかわれる家畜も社畜もバ畜も、まるで人間がいのちのない単なる物体のように扱われ、一人ひとりが尊重されない環境のなかで主体性を放棄した状態ということになります。そういうように動物たちや植物などの家畜を扱い、そういうように人間も扱うようになったということでしょう。一方的な奴隷化、搾取、それを飼いならされた状態というのでしょう。

実際にうちの烏骨鶏でいえば、柵も鳥小屋もあるのは野生動物や蛇などの天敵から守るために設けるものです。それに広さを十分に確保し、止まり木があり、発酵土を設け、泥浴びができるようにし、風通しのよい日陰で新鮮な空気があり目が届く場所に設置するのは奴隷化するために飼育しているのではありません。犬も同じく、綱があるのは車社会で飛び出すと危険であることや保健所に連れていかれて殺処分されたり、犬に乱暴に扱う人たちがいることから守るためでもあります。飼いならすことと守ることは違います。大切ないのちを守ろうとするからこそ「畜」はあるのです。

「畜う」という字は、「やしなう」とも読めます。つまりは、大切に育て養い守るということです。そして見守られている側もきっとそれに気づいて安心して育つはずです。そうやって「お互いにやしないあう=見守り合う」ことで私たちはいのちの寿命をのばして仕合せになるように思います。

言葉の使い方の中に、時代の価値観や人々や民衆の感じる不信や不満がでてきます。全部がそうではなく、そしてそうではない生き方の人たちの実践もあることにももっと目を向けて子どもたちのために将来がどうあってほしいかよく考えて今を生きる大人として取り組んでほしいと思います。

私たちも引き続き、子ども第一義、私たちの道を拓いていきたいと思います。

原始からのいのり

例大祭の準備で太鼓をお手入れしています。私のところで使われている太鼓は、明治19年のものです。それを修繕して使っていますが、元々これは滋賀県六地蔵で使われていたものです。私は地蔵尊とのご縁が深く、何か大切なことがあるときはよく地蔵尊に関係するご縁や出来事、物とも出会います。歴史あるものの続きを奏でられることに有難さをいつも感じています。

和太鼓というのは、石笛と同じく縄文時代よりあったといわれます。特に原始的なこの太鼓や石笛というものは、シンプルな音の中に深い自然への畏敬の念を感じるものです。

音というものは、不思議なものでその波動は複雑ではないほどに洗練されています。太古の音色は、叩きかた次第であらゆる心情を表現し、またその場の雰囲気を変えてしまいます。同時に、リズムによって全体との調和や躍動感を引き出していきます。

原始的な祭祀は、歌や舞、踊りをしますがそれはまるで春が来ては鳥たちや魚たち、あらゆる虫たちがいのちを踊るかのように舞い、いのちといのりを表現します。

これから誕生するものへのいのり、これから消えていくものへのいのり、そのどれもが音や波動を通して心情に沁みこみ響き渡ります。

さらに私のところにある最も古い太鼓は戦国時代のものがあります。これは陣太鼓で徳川家への献上品の一つでした。龍虎が描かれ、幻想的です。音を鳴らせばその余韻は深く、いつまでも耳を通して心に残ります。

目を閉じれば、その時代の音が聴こえてくるかのようです。

芸能のルーツは、これらのシンプルで洗練されたものの中にこそ今もまだ生き続けているように私は感じます。妙見神社の例大祭では、この妙を観る境地をみんなで感じ合うところに仕合せや喜びもあります。

子どもたちにいつまでも先人たちのいのりが伝承していけるように、丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

ご縁と直観に感謝

私たちには、運を高める力というものがあるように思います。また力というのは信じることで磨かれていきます。しかしこの力というものの本体は何かと観察するとそこにご縁というものが働いていることに気づきます。つまり、私たちの運や力の正体はご縁に由るということです。そしてこのご縁は、自然と同様に一期一会です。一期一会のご縁をどこまで大切に活かしてきたか、そこに運も力も存在するように思います。

そもそもこの時代にいることや今の環境にあること、そして自分という体、そして心、すべての感情も知識も認識もまたご縁です。今の両親のもとに産まれたことも奇蹟ですし、今生きていること自体も奇蹟です。それは説明すればみんななんとなくは実感するものです。この奇蹟と感じるときこそご縁を感じることです。

奇蹟であるとどれだけ一瞬一瞬に感じるか、不思議なことですが人間はなかなかそうは思いません。同じように朝起きて、朝食を食べてはいつもの家族や友人、仲間たちと仕事に向かっては一日を色々なことをしては終えていき就寝します。そのうち当たり前になってきてはマンネリ化して奇蹟だということも感じにくくなるものです。

しかしその当たり前やマンネリ化が何かの拍子に破壊されてしまうと、実は奇蹟だったということを思い出します。どれもご縁だったと深く感じ直すのです。私たちはご縁の導きによって道を歩んでいきますが、多くの物や機会や人に出会ってはまた分かれていきます。その中で、一期一会とどのように結んだかで人生の運が決まります。

運を信じる生き方というのは、一期一会の生き方ということでしょう。

私は座右の銘が一期一会ですから、毎日、運を信じては力を試して前進していきます。昨日もそして今日も、今も一瞬一瞬がご縁との邂逅です。日々に内省を味わいながら、自分が感じたすべての直観と誠実に対話して応じて実践を積み重ねていきたいと思います。

一期一会の生き方、ご縁と直感に感謝しています。

変化への感謝

マンネリ化という言葉があります。辞書によれば「マンネリ化(まんねりか)とは、マンネリズムにおちいることの別の表現で、同じパターンや状況が繰り返され、新鮮さや刺激が失われることを指す言葉である。例えば、日々の生活や仕事、趣味などで、同じ行動や状況が続くと、人はマンネリ化を感じることがある。マンネリ化は、新たな刺激や変化を求める人間の心理から生じる現象である。」と書かれます。

さらにこのマンネリ化の語源を調べていくとこの「mannerism (マンネリズム)」は文学、芸術、演劇などにおいて型にはまった手法・様式・態度への強い固執といった意味だと出てきます。そしてこのマンネリズムの言葉は、イタリア語のmannerからあるとして、これは行儀や作法や礼儀などの意味になります。さらにマナーにあたるラテン語マネリウムmaneriumは、領主が所領を秩序よく統治するために使われた言葉です。

マンネリ化は、ルールや秩序において形式的なことにこだわるような意味から形骸化や形だけ、馴れあいなどの意味に使われています。人間というのは不思議ですが、なぜそれを創めたのかという最初の理由をすぐに忘れていきます。忘れないように習慣化したらまた習慣化したのちにその意味を忘れます。

新鮮なままで心の状態が保てるかといえば、感動したものがいつまでも持続しないように様々な感情を通して感じ方が変わってきます。この感動というものも、とても絶妙な組み合わせとタイミングで発生するものです。同じことを繰り返しても同じことはありませんから感動が薄れていくのです。感動は新鮮さと直結していて、時間が経てば関係性が変わっていくように鮮度が落ちておくのです。

この鮮度といった新鮮さは、変化のことです。変化というのは、言い換えれば忘れていくということです。忘れないようにするために私たちは色々な工夫をします。その一つが感謝ではないかとも思います。人は感謝するとき、改めて忘れていることがあるのではないかと思い出します。人は思い出すとき、そのものの意味や価値に気づき直します。

そうやって繰り返し鮮度を甦生していくのは、それだけ大切な初心のお手入れをしているからです。古民家の飴色になった暮らしの道具たちや、いぶし銀のような美しさを放つ道具たちもそうやってお手入れをし続けてきた先人たちの感動が宿っているからです。

失ってはじめてわかるのでは悲しく残念です。形式化しないように、当たり前にならないように変化に感謝していきたいと思います。

預言の本質

預言というものがあります。これは辞書を引くと「ある人が神や神霊の代わりとなって、神意を民衆に告げること」とあります。世の中が不安定な時は、色々な預言者が現れ様々な預言をするものです。有名な預言者には、イザヤやエレミア、エゼキエルがいます。少し前ではドイツのシュタイナー、日本にも出口王仁三郎氏がいます。

そもそもこの預言というものは、不思議な直観力を持って見通す力だといわれます。しかし冷静に考えてみると、人間が預言者として尊敬して感動するのはここ数日から数年、あるいは十数年の事実を見通すことや、同様に過去の同じような期間のことを言い当てたことによるように思います。

1万年先や100万年先の未来も過去も、今の自分には関係がないからです。そう考えてみると神様と崇められる存在というのは短い期間の予想ができる人物ということになります。ある意味、組織のリーダーというものはその経営のかじ取りをする上で中長期的な未来予測を絶妙にできる存在が人々によって選出されていくものです。

そしてこれらの予測は、如何にして行われていくのかを観察するとそれは全ての出来事への内省からの深い洞察に裏付けられていることがわかります。

なぜなら、過去の出来事というものはその本質をよく見つめればそれは未来の出来事になるということがわかります。古来からの因果応報、陰陽調和の知恵にあるようにすべては表裏一体であり万物和合しているものです。何かをすれば相応にそのことが調和しゼロになるようなことが発生するのです。

これは預言というよりは、宇宙や自然の仕組みであり避けられない法理であり真実です。最初から存在しているルールというものには、逆らえないのです。どんな預言者であっても肉体的には滅ぶようにこれらのことも避けられません。物質が循環するという法理には逆らえません。

だからこそ預言は一般的には神の霊感とか言われますが実際に私が感じるのは非常に深い内省からの洞察でありどこまで物事の陰陽を微小に偉大に観ているかというです。これを科学で突き詰めるのなら、AIなどはその情報量のインプットと分析によってある程度の人類の未来は予測できるように思います。人間が受け入れないだけで、すでにAIは人間の業を分析済みであるのです。

ただ、人間は起きてくる真実とは別にどう生きるか、どう感じるかは人によって選べるものです。それはどのような宿命が待っていたにせよ、自分がその最後の瞬間までどうあるかは自由にできるということです。

なので、こうなった時はどうするか。こうあった時はどうあるかなどはある程度はシュミレーションできるものです。どんなに大金持ちであっても地球規模の大災害からは逃げられません。この世に宿命から逃れられる人はいないのです。結局は、その逃れた行為から別の業が発生していきますからこれも法理として決められた布置からは逃げることはできないということでしょう。タイムマシーンのようなものがあったとしてもまた別の運命に翻弄されるだけです。

先ほどの出口王仁三郎氏は、「この世で起こる出来事や事件はあの世に現れている」ともいいました。この世が陽であれば、あの世は陰ということではないかと私は思います。これは三浦梅園先生も同様なことを仰っていました。

また出口氏はこうもいいます。

「1日先のことがわかれば大金持ちになれる。1ヶ月先のことがわかれば大宗教家になれる。10年先、100年先のことを見通せば、頭が変だと危険視される」

これに1万年後とか10万年後のことを言うと、普通過ぎて誰からも気づかれない人になるようにも思います。結局は、預言というものの本質はそのような感じのものです。

だからこそ、今、どうあるかに集中することで過去も未来も調えていくことができるものです。過去をよく観察し学び伝承することは、未来そのものを善くなるように循環に導く大切な今になります。

今を大切にするのは、それが子どもたちや子孫の未来に直結するからです。自分がどうなるかを心配するよりも先に、自分よりも先の世代のことを慮り自分が多少大変であっても過去から学び未来を繋ぐことの方が預言の仕合せはあるように思います。

引き続き、かんながらの道を歩み徳を磨いていきたいと思います。

素直を磨く

果物には完熟期というものがります。これか果樹を観察するとよくわかりますが、周りの動物たちや鳥たちもその時期を分かって食べにきます。本来の自然というのは、いつ食べることがいいのか、そして食べる色がどうなっているのかをよく分かっているものです。

現代では、人間は色を着色して食べ物を出しています。脳がまずその色を見ては、この色は美味しいだろうと認識します。そして食べればその味を補正していきます。自分の知っているうまさに近いものに修正していくのです。一年中どこでも同じものが食べられることを目標にすると、本来自然にあったものを食べなくなっていくものです。

それだけ人間は思い込みである程度のことを判断しているということになります。私たちは感覚を発動させるために、先に脳が動きます。これは危険を事前に察知したり、あるいは情報を収集して最適な状況をつくりだすために行われてきたものです。

しかしその機能だけを発達させて他を使わないでいるとバランスが崩れていくものです。現在、様々な脳の病気や心疾患が増えるのもこの思い込みの仕組みばかりを使っているからかもしれません。

思い込みを外すというのはとても重要なことです。そのためには、日頃から自然の感覚を研ぎ澄ませている必要があります。この自然というのは、思い込まないということです。本来のものをあるがままに素直になって観るという生き方のことでもあります。

素直であればすべての真実を実感することができます。素直になるには、何が素直であるかを日頃から磨く必要があります。素直を磨いている人は、自然体に近づきます。自然体になれば、先ほどのような思い込みを使いません。全体が調和して感覚を使え、仕合せを深く味わえる暮らしがととのいます。

暮らしフルネスというのは、この素直を磨くことにも似ています。何が素直であるか、何が素直を磨くのかを体験することで人は自然体に回帰するのです。引き続き、暮らしの食をととのえながら素直を磨いていきたいと思います。

非常食の知恵

災害や震災など非常時には非常食が必要になります。しかしその非常食は、今の便利な世の中の常食に対しての非常食ですから本来の非常食ではありません。むかしは、天候の変化や飢饉などで食べ物自体がないことがありました。その時は何を食べてうえをしのいだか、またどのような対策を立ててきたか。つまり非常食といっても、その定義が異なるように思います。

むかしの非常食とは保存食です。味噌をはじめ、干して乾燥したもの、漬物など常温で保存できるものをたくさん備蓄していました。緊急時の保存食は乾燥したもの、水を使わないもの、塩などです。昭和のころは、かんぱんなどが非常食になっていました。

実際に自然災害に被災すると、水もない火もないということがあります。そうなると先ほどのような乾燥したもの味噌、漬物など持ち運びできるもので栄養があるものとなります。しかし水と火があるのなら、温かいものを食べたいと思うのです。調理ができれば、それだけ心身が癒されます。食べるというのは、単に栄養素がありいのちが生き延びるものではありません。コンビニにあるようなゼリー状のものだったりレンジでチンする便利なものは心身が元氣になるようなものではないあくまでサプリとしての役割になるように思います。

私は日頃から、炭火を使い調理をすることが多くあります。またお水も井戸水や湧水を利用します。なので、素材を活かした調理ばかりをつくるので元氣が出るものばかりを食べているように思います。この元氣さというものは、いのちがあるものを食べるときに湧いてきます。

水がなければすべての生き物は生きていけませんが、同じく温かくなければすべての活動が止まってしまいます。この水や温度は私たちの心身の循環に大いに役立つものでそれを保っているままでいることで元氣も循環していきます。

未曽有の災害はこれからもますます増えていくように思います。人類が自然から離れるほどに未曽有の災害が増えるからです。危機に備えるというのは、むかしの知恵を活かすということです。

引き続き、子孫のためにも暮らしの中で先祖からの知恵を守り続けて伝承していきたいと思います。

本当の変化

時代が変わってしまうと懐かしいものが新しいものになります。その理由は、時代の変化と共に価値観が変わり本来であったものが発展していく過程で複雑になっていくからです。ある程度まで複雑になってしまったものは、成熟してしまい変化ができなくなっていきます。つまり現代の価値観の中における変化というのは、複雑化していくということです。

その複雑化したものを原点回帰してまたはじめて新しいものにしていく。こうやって時代は何回も同じことを繰り返しているようでシンプルになることと複雑になることを往来しているともいえます。

例えば、料理でいえば最初はとてもシンプルだったものが様々な時代の流れや新たな料理が開発されていくなかで品数も増え味つけや方法も増えていきます。しかしある程度までいくと元に戻らなければそこから増やしていくことができなくなります。つまり変化がなくなっていくのです。老舗の味などは、このやり方とは異なり同じ味を時代が変わっても追及するなかで微細な変化を続けています。これは先ほどの足し算ではなく引き算によって変化を長く続けようとする仕組みです。

短期的な変化は、複雑化していくことですが長期的な変化は原点回帰を続けることです。これを不易と流行ともいいます。何を変えて何を変えないか、このあり方に生き方や生きざま、取り組み方や姿勢がすべて入ってきます。

和魂洋才や和魂漢才などの和魂という言葉があります。これも本来の日本人として生き方は変えないままにその時々の海外の文化を吸収して活用するということです。元を変えないということで原点回帰を続けていく仕組みです。しかし変化が長期的でゆっくりです。明治時代以降、日本は短期的でスピーディーな変化を採用してきました。つまり先ほどの言葉では、洋魂和才、漢魂和才ともいうのでしょう。変化はでて複雑化して発展しましたが成熟して変化が失われてきました。変化しないものは、滅びるのがこの世の常ですが変化は生きていることにおいて何よりも重要なテーマです。

今の時代、複雑化を変化と呼ぶ人があまりにも多くなっていますから新しいことばかりを求めては懐かしいものには目もくれません。しかし先ほどの老舗や長期的な取り組みを生きるかつての和魂のある日本人は懐かしいものを変化と呼びました。

私の取り組む懐かしい未来や懐かしくて新しいものは、本当の変化への挑戦になります。ここ数年、これに気付ける人たちが集まってきては、変化の核を形成してきました。遅々たる速度ですが、それが日本的な引き算の美徳と変化の本懐です。

引き続き、日本の未来をよくよく見据え今に積み重ねていきたいと思います。