暮らしの甦生

現代は、火はガスや電気があり水は水道がありとても便利です。一昔前まではそんな便利なものはありませんでしたからライフラインの確保は本当は大変なことだったように思います。

火は森の近くに、水は川や井戸の近くに確保しては人間の方が自然に合わせて移動をしていたように思います。今では、人間の方に便利な仕組みでライフラインを確保します。お金さえ払えば、どんな場所でも電気水道ガスは来ます。今ではそれが当たり前になっています。

しかしこの当たり前というのは、本来は当たり前ではないことを思いだす必要を感じます。そういうところから、人間の本来の自然の感性は鈍っていくからです。

私たちは火や水には毎日のように暮らしの中で感謝を忘れませんでした。それはライフラインだからです。これを失えばすぐに私たちは死に直面します。死を意識するのはこれらの火や水が失われることです。そのうえに衣食住があります。

その存在の有難さを忘れることもなく、いつも朝起きては火の神様、水の神様に拝み、また日々に何度もその存在を実感してはありがとうございますとお礼を言っては使わせていただいていたように思います。

私は古民家甦生をしてから、火や水のことをとても身近に感じるようになりました。その理由は、むかしの人たちがとても火や水を日常の暮らしの中でとても大切にしてきたことが家の様子から伝わってくるからです。

現代は暮らしというのも、人間都合のものばかりを暮らしと呼びます。少し仕事とは違う、非日常のことや、余裕や心のゆとりなども暮らしなどと定義しますが本来はそうものが暮らしではなく、先述したような火や水への感謝を忘れないことこそ暮らしなのだと私は感じます。

私の言う暮らしフルネスは、感謝の暮らしのことです。

現代のような時代、なかなかこれだけ便利で人間都合になればなるほど私が言っているのは時代遅れや潔癖や気狂いなどとも感じるかもしれません。しかし、私は今の時代こそ最先端であり必然であり、生きる力そのものとなるものだと思います。

便利さがこれだけ当たり前になる世の中では、人間本来の危機感も崩れてしまうものです。時代に流されず、子孫のためにも大切なことを守り続けながら人々に暮らしの甦生を伝道していきたいと思います。

恵まれている人生

思い返せば、私はずっと人に恵まれてきた人生を送ってこれたように思います。出会いやご縁を大切に生きてきた御蔭で、素晴らしい人たちの尊敬する部分、美点、魅力をたくさん体験して共感し学ぶことができました。人に興味を持ち、人の奥底にある役割や目的を丸ごと愛するように心がけてきました。

癖が強い人、こだわりがある人、あるいは繊細な人、器の大きい人、たくさんの人たちに出会っていく中で人間の魅力を感じて自分の糧にしてきました。似たところもあれば、まったく似ていないところもあったり不思議ですが関心はなくなりません。

人生の前半はずっと話すことに力を入れていましたが、後半からは聴くことに注力してきました。その御蔭で話を聴くうちに、周囲の人たちの存在がとても有難く感じるようになりました。人間はそれぞれに守るものがあり、それぞれの目的があります。時にはちぐはぐな人がいたり、またある時には思い込みで自分を見失っている人がいたりします。みんな何かに困っていたり、あるいは苦しんでいたりと、それぞれの悩みもあります。そういうことを丁寧に聴いて思いやりで接していく中で、その人のことが少し観えてきます。すると他人事ではなく自分のことのように感じて、取り組んでいくうちに気が付くと自分もあらゆることで助けられてきたように思います。

人間の不思議な関係は、「助け合い」をすることができるということです。助け合うことで、人生はとても恵み深いものになります。どうしても自分に余裕がなかったり自分が大変なときほど、自分でいっぱいになってしまうものです。

しかし恵まれてきたこと、今も恵まれていることに気づくことで周囲の有難さに気づいていくこともできるように思います。

この恵みというものの正体は、与えあう素晴らしさを実感できているということでしょう。むかしから奪い合えば足りず、与えあえば足りるという言葉もあります。与えるのが好きな人はそれだけ恵まれていることに感謝している人なのかもしれません。

豊かさもまた、その恵みを実感できる暮らしの中にあるものです。生き続き、感謝や徳を磨きながら日々の暮らしフルネスを楽しんでいきたいと思います。

山伏の柚子胡椒

昨日、英彦山でとても有名な柚子胡椒の会社、柚乃香本舗の代表がお越しになりました。先代の長野覚先生の時から守静坊の柚子を柚子胡椒にしていることをお聴きしており、毎年山伏屋敷の柚子胡椒として当坊の柚子を使っていただいております。

はじめて食べてみると、他の柚子胡椒よりも野生の味わいが強く元氣が漲るような感覚があります。もともと山伏の秘薬として、あるいは宿坊庭園の観賞用としてむかしから植えられていたといいますが時代の変遷を経て柚子胡椒として英彦山を代表するお土産、名品となっているのは素晴らしいことです。

お話をお伺いすると、祖父の方が創業者で柚子胡椒の元祖であることをお聴きしました。それまでの歴史や商品を研究してきた苦労、そして実業家でもあり山伏の家系として生き方、とても示唆のあるお話に有難く思いました。

そもそも歴史というものは、生もので過去にあったことが止まったままではありません。時代を超えて形を変えて、今の人たちがその歴史を生きたままに伝承していきます。人間が感知する歴史は、50年くらいたてばもはや何がその当時に行われていたのかは生きている人から伝わらなくなってくるものです。生もののように鮮度があるのです。いくら教科書や記録に書かれていても標本のようになっていても、動いているもの生きているものではなければ真実がわかりません。

しかしそれを観た人が多数生きていて、今もそれを大切に扱い、それぞれの記憶や実体験を口伝等でお伺いしていくなかで生きたままの鮮度を甦生させて生の歴史を知ることができます。

柚乃香本舗は創業者の祖父の実業を受け継がれ、今でもその初心と共にお仕事をなさっておられました。私も宿坊にある柚子と共にこれからも英彦山をはじめ柚乃香本舗のお役に立てることに感謝の思いがします。宿坊甦生の際にいくつかの木を作業できないからと切ってしまったことに深く反省しました。改めて英彦山の柚子の木をもっと大切にしなければと反省と決意をいただきました。

英彦山とのご縁は、この人生においてとても大きなものです。英彦山に関係する人たちと出会い、生きた歴史を知り、生きたままに歴史を味わう。こんな仕合せや喜びはありません。

丁寧に歴史を紡ぎながら、志や伝承を紡ぐ方々と共に子孫へと真心を結んでいきたいと思います。

生まれ変わる

意識というのは何回も生まれ変わるように思います。私たちが身体は、新陳代謝を通して細胞もその都度生まれ変わっています。死というものは、この細胞の生まれ変わりが次第に失われて消えていくことは科学的には証明されています。

不思議なことですが、細胞の合体によって私たちはいのちを繋ぎます。そして繋いで新たな生命が誕生しますが、同時に増え続けるものを今度は消滅させていく必要があります。バランスというものですが、それを保つために合体しては消えるという循環を自然は持っています。これはいつからそうなったのか、宇宙の一つの真理や原則なのでしょうがその御蔭で全体を結ばれ環境に適応していくことができます。

私たちのいる宇宙は、有為転変であり諸行無常です。合体するからこそ変化するのです。変化の正体は合体なのです。合体していくことを続けなければ存在することができない仕組みになっているのです。創造と破壊こそ、生きるということです。そのために、変化するのです。

ただこの変化や合体には、意識というものがついてきます。どういう意識でプロセスを経たかというのが、次の合体に結ばれていくからです。毎回、創造と破壊を繰り返してもゼロにリセットされているわけではありません。同じことは二度となく、形成する段階で毎回何かが変わります。それは傷のようなもので、時を刻むようなものです。そしてそれを癒し、それを忘れるという作業があります。

その行為を繰り返すことで、私たちは生きている実感というものを得られます。生きている感覚、いわばこの感覚を味わうことで役目を理解して役割に仕合せを感じるのです。

細胞もまた同様に、日々に生まれ変わることによって仕合せを感じます。健康というものの本質もまた然りでしょう。そして同様に意識も変わります。意識は特に時間や歴史によって変化していきます。変化の中にいることを忘れなければ細胞は調っていきます。意識が調っていれば、人類はバランスを崩すことはありません。健康であるためには、自然や宇宙の変化にあわせて自分たちも意識を変え続けていくことだろうと私は思います。

自分の中にある宇宙、つまり意識を調えることが大きな目で観ると人類にも地球にもすべてにも大切なことはわかります。丁寧に自分自身を調えて暮らしを実践し、新陳代謝と生まれ変わりを味わっていきたいと思います。

暮らしの徳を調える

人の世の中というのは移り変わります。何が移り変わるかといえば、同じことがないということです。日々に進化して已まず、同じように周回していても同じことは一つとしてありません。天体や地球も周り続けていますが同じようにはなりません。常に同じというものはないのです。

同じがないというのは、とても安心感があります。何をしていてもどうしていても、あるいはじっと静止していても進化しているということです。静止こそ純善たる進化だと私は直感しています。似た言葉に停滞というものがあります。これはむしろ進化しているのに逆らっている状態をいうのでしょう。逆らわずに泰然自若、あるいは自然体で自然の道を自分らしく歩いていく人たちは静かなものです。

人間の寿命は限られています。形としての姿は必ず滅します。しかし人の魂はあらゆるものを依り代にして永続的に継承されていきます。時には、思い出や意識として受け継がれ、また時には場の中に思念や余韻としても継承されていきます。

私たちの肉体の本体は消滅しますが、精進し続けた魂は永遠ともいえます。それは徳という存在によって顕現するものです。

現在、宗教をはじめ目に見えないものは怪しいとされていますがそれを科学が証明すればあやしくはありません。人智の及ばないものは考えることを停止し、人智の及ぶ範囲を最先端だともてはやすというのはとても滑稽なものです。実際に最先端といっている現代のものは、古代や先人たちの叡智の足元にも及びません。どれだけの広さで物事を観ていたのか、どれだけの深さで直感的に捉えていたのか、もはや私たちがいう神様の領域です。仏陀をはじめ、老子や孔子、2500年以上前に出た人物たちの生き方を言語化してそれを教化したくらいから私たちは分化分類してはそれを整理することを知恵と呼びました。しかし実際には、自然が造形し創造したものには敵うことはことはなく、誰も地球ほどの調和を産み出すこともできません。

つまり私たちはどれだけ進化したと言い放って称賛してみても誰一人最初からあったものには敵うことがないということです。

この最初からあったものということに気づくことこそ、私は真の科学ではないかと思います。そして気づいたとしてもそれを何に使うかは人類が決めます。ここに人類の幸不幸が関わっているように思います。

質素で慎まやかな生活をするというのは、現代のような便利で不自然なほどにありあまる大量生産大量消費の人類優先の社会ではあまりいいものとは思われていません。

しかし、それも長くは続かずいつかは終焉がきます。その時、人類は五体満足であることや呼吸ができること、太陽があり水が飲めることなどに感謝するものです。

同じではないというのは、そうやって何度も最初を往来しては変化で気づこう、別の体験をしてみようと繰り返しているだけです。外を静かに眺めると、季節のめぐりとめぐみほど豊かなものはありません。

子孫たちに健やかな未来が譲り遺していけるように、暮らしの徳を調えていきたいと思います。

やり遂げる知恵

私たちが限られた寿命の中で、今を味わい今を生きています。その中で何をやり遂げたのかを顧みると、続けてきたこと、続いてきたことがその結果になっていることがわかります。

例えば、呼吸などわかりやすく私たちは呼吸を継続することで生きています。呼吸が止まれば活動はそこで終わります。生きているというのは、呼吸をすることです。呼吸をし続けることで活動もまたし続けています。こうやって続くものの中に、私たちのやり遂げたいことがあるということです。

人生の中では、やり遂げるものの格言がたくさんあります。やり遂げたものの一つとして成功というものがあります。そして成功と失敗の境界線は諦めたか諦めなかったかに尽きるということもよくわかります。

せっかくなので、その格言をいくつか調べてみます。

「進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。」  福沢諭吉

「他の発明家の弱点は、ほんの一つか二つの実験でやめてしまうことだ。わたしは自分が求めるものを手に入れるまで決してあきらめない。」 トーマスエジソン

「成功の可能性は0%だと言われて、諦めることができるような、そんな軽い気持ちで夢を追いかけたわけじゃないのです。」 ジネディーヌ・ジダン

他にもたくさんの方々が諦めずにやり遂げることの大切さを語ります。諦めないというのは、何を諦めていないのか。それは自分の信じることを諦めないということです。自分の信じるとは、自分が已むに已まれずにそうしたいと思うことを続けることです。

何度も心が折れそうになっても、不撓不屈でまた挑戦する。そこにやり遂げるための本質があるように思います。変化というものは、やり遂げるために必要なものです。

諦めないからこそ、ありとあらゆる変化を利用して挑戦する。昨年が苦労や苦難が多かったからこそ、今年は様々なことに挑戦して引き続きやり遂げていきたいと思います。

場の例大祭

来月の2024年2月4日(日)の11時より、飯塚の場の道場(BA)にて例大祭を行います。この例大祭とは、一年に一度しかないこの場の大切な「ハレの日」です。前日が節分で一年間の鬼や穢れを豆まきによって邪気払いをしつつ福に転じて、立春という新しい季節のはじまりに予祝をして新たな芽吹きをみんなで祈り感謝して笑う。

私たちは縁起という、ご縁と御蔭様によって暮らしが豊かになり仕合せになりますが例大祭はそれを確認するだけでなく新たに甦生させるという懐かしい未来の一日になります。

徳積財団の設立から御蔭様で5年目に入りました。この5年間、本当に内容の濃い徳積活動をさせていただきました。ブロックチェーン神社としてスタートしてから飯塚モデルといったような真に新しい経済をどう創るかという課題を解決するために徳積帳を開発し昨年は三浦梅園先生の教えに触れて徳が循環する経世済民に取り組みはじめました。現在、日本は心が冷たい人が増えたといわれみんな自分のことばかりを考えているとも言われます。しかし全体がそうなっているのではなく、志のある方や私の周囲の方々はみんな心温かい人たちばかりです。

一年に一度のこの大切な節目に、皆様と一緒に場に集い最も澄んだ一日を過ごしたいと思います。

今回の例大祭は、ご祈祷はいつものように妙見神社の有光禰宜さんにお願いし法螺貝奉納は私。石笛奉納を宮前奈々子さん。そして奉納舞は米田さきさん。昨年ご一緒一体に舞っていただいた待望のご子息も誕生し、大変縁起も善く有難い舞になります。そして光の鍵盤ピアニストの今井てつさんに奉納演奏にて浄化します。音の響き、舞の響き、すべてに辰年に相応しい龍の振波動を感じていただけると思います。

また直来(お食事)は、立春に相応しいお雑煮やお餅、福のつくものをご用意しています。そしてお昼から会場を調え「暮らしの立春音楽祭」を歌唱力が研ぎ澄まされているシンガーソングライターの丸目雅さん、また双子の倍音を奏でる野見山祐輔・晃輔が行います。

暮らしフルネスな一日を、皆さんと一緒に味わい盡して新年を祈祷しお祝いしたいと思います。日曜日の開催なので、久しぶりにお会いできる方もおられると思いますが心から場での再会を楽しみにしています。

運とは何か

運に選ばれる生き方というものがあります。幸運というものは、偶然のようにみえて実際は必然であることを思います。これはご縁を感じるものと似ていて、そこには偶然はありません。柳生家の家訓に、縁を活かすがありますがこれも運を善くすると似ている共通点が多いように思います。

運のことを深めていると、桜井章一さんという人のことを知りました。まだ著書を拝読してはいないのですが、この方は東京都世田谷区下北沢生まれの経営者、雀士、著作家で雀荘の経営、麻雀に関わる自伝・自己啓発の分野の書籍の出版に携わっている方だといいます。運に関する言葉も色々と書き残しておられ、ここに運に選ばれる生き方を感じることができます。勝負の世界ほど、運を味方につけるかどうかが大切なことはありません。その言葉で共感したものをいくつかご紹介したいと思います。

「勝つ」ことではなく「負けない」ことにホンモノの強さはある。

勝負の世界とは勝つことではなく、負けないようにすること。これは将棋の、「攻めるは守るなり」に似ている言葉です。

また勝負で迷うことにおいてこういいます。

麻雀に長考はない。それは考えているのではなく、迷っているだけだ。

そして迷いはどこから来るのか、

不安や迷いの原因は、「感激」「感動」「感謝」が足りないことだ。

考えているのではなく、感じているときに迷いはないというのでしょう。

そしてこうもいいます、

 人間、立ち戻る場所がないと迷いが増えて弱くなる。その反対に立ち戻る場所があると強くなる。

立ち戻る場所、これは初心や理念とも言えます。自分が何のためにやるのか、その目的や意味を感じるとき、人は考えることをやめて決心が定まるように思います。

そして失敗のことをこういいます。

「失敗」イコール、「負け」ではない。

では何が勝ち負けかというとこう定義しています。

理想的なのは、「よい内容で勝つ」こと。次に望ましいのは、「よい内容で負ける」こと。3番目が「悪い内容で負ける」ことであり、最も下なのは「悪い内容で勝つ」こと。

つまり、内容のことを観て勝負としているのです。いい勝負をしたかどうか、これは本当に大切な心構えのように思います。

最後に「運」についてはこういいます。

慎重すぎると、「運」は逃げていく。

「悪い運」の連鎖から脱けるには、逃げずに早めにケリをつけることだ。

運というものは、逃げないこと、正面から挑むときに必要になるというのです。

言葉をいくつか拾うだけでも格好良い生き方、勝負の世界にある生きざまに憧れのような感覚を味わえます。勝負の世界とは、大きな意味で己に克つという自己との勝負があります。みんな人は誰もが、生まれながらにして勝負の世界に入っているともいえます。強くなりたい、優しくありたいと思いますがそうあるために日々は真剣勝負なのです。

強い人間とは、決して準備を怠らず、成し遂げ、後始末をおろそかにしない。つまり「間に合う」ということだ。

心温かきは万能なり。

とも言います。負けない生き方というのは、間に合うために準備することです。備えろいうことでしょう。これは特に深い境地です。

本当の「勝負所」は圧倒的に不利なときにこそ訪れる。

今まさに、圧倒的不利で諦めそうなとき、苦しく辛くてやめてしまいたいとき、困難な時、勝負所に入っているということでしょう。元氣をいただく言葉に救われる人も多いように思います。色々と学び直していきたいと思います。

立春と素直な心

春のはじまりを告げる、そして冬のおわりを告げる節目です。立春の「立」には季節の始まりという意味があり、「春の気立つをもって也」ともいわれます。春の気配がはじまったということでしょう。

そうやって周囲を見渡すと、池のほとりの様子や植物や木々の蕾や新芽、また動物たちの行動や鳴き声などが変化が著しくはじまっています。

この時期は大寒といって一年で最も寒い季節ですが、この時期の空気や水が澄み渡っていることからこの時期に発酵食品などをむかしから仕込んできたともいいます。太陽を観察しながら日々を過ごしていると、この季節の太陽の光の清々しさは言葉にはならないほどです。

特に雲一つない薄碧い空の光や、夕陽の河に反射して眩い光、また夜空に照らす月の透明さ、どれもがこの寒い季節だからこその澄み渡った気配があります。寒さは厳しいですが、その分、いのちは研ぎ澄まされて感覚も鋭敏になっていきます。

感覚が鋭敏だからこそ、この時に仕込みたいものがたくさんあります。これからの夢や希望、そして昨年からの改善、あるいは覚悟を確認して決心することなどとても心地よいスタートがきれます。

昨日は鏡開きもして、道が開いていくことの目出度さ、豊かさや感謝などを味わいました。五穀豊穣というものがある御蔭で私たちは暮らしを味わうことができます。恵みに感謝することや、いつも助けてくださっている御蔭様を祈ることは仕合せを確認することにとても意味があります。

立春といえば、西行にこういう歌が残っています。

「年くれぬ 春来べしとは 思ひ寝に まさしく見えて かなふ初夢」

私も残りの寿命を思いながら昨日は眠りました。朝起きてみると、すでに夢が叶っていることを思い感謝が沁みました。春とはまさに今ここに味わう素直な心。いつまでも素直な心のままに原点回帰して日々を大切に過ごしていきたいと思います。

鏡開きと丁寧な暮らし

今日は、福岡では鏡開きをしてお餅を食べます。昨年末に、仲間や家族がみんなで集まってついたお餅をお祀りして歳神様をお待ちしました。この歳神さまは穀物の神様です。五穀の神様は、太古のむかしから神話で私たちが地球の恵みとしての食べ物をいただくことができるきっかけになった神様です。その五穀の神様が正月の間、ずっと依り代としての入っておられた「お餅」を食べることでその霊力を分けて幸運をいただくと信じられていました。

他にも、鏡餅には「歯固め」という意味があります。歯が丈夫であることは、一生食べられるので長寿の要として新年の健康と長寿を願い固くなった鏡餅を食べるようになったといわれます。もともとの今のような鏡開きは、室町時代や江戸時代の武家社会で行われていた ”具足開き” とも言われています。

この具足開きはお正月が明けた後に具足餅を下げ木槌で割って食べる武家の行事です。本来は1月20日でしたが、徳川家光の命日と重なったので変更になりました。関東では1月11日に鏡開きをしているところが多いです。関西では小正月の1月15日に行います。

またこの鏡開きのお持ちの食べ方ですが、私たちはいつも「かきもち」にします。このかきもちの「かき」とは、手や鎚で割ることを「欠き割る」ということから「欠き餅」になったといいます。

衛生的にも安心というのもありますが、何より油で揚げた揚げたてのお餅の美味しさは群を抜いています。塩を少し振りかけて食べるのですが、まるで餅つきしたつきたての時のような新鮮な味わいがあります。力が甦生するのです。

もう何百年も前から続く風習ですが、この行事の一つ一つを丁寧に取り組むことで豊かさと有難さ、また伝承の知恵の持つ偉大さを感じるものです。

子孫のためにも時代が変わろうが環境や教育が変わろうが、変えてはならない豊かな仕合せと感謝と喜びのためにも丁寧な暮らしに取り組んでいきたいと思います。