鏡開きと丁寧な暮らし

今日は、福岡では鏡開きをしてお餅を食べます。昨年末に、仲間や家族がみんなで集まってついたお餅をお祀りして歳神様をお待ちしました。この歳神さまは穀物の神様です。五穀の神様は、太古のむかしから神話で私たちが地球の恵みとしての食べ物をいただくことができるきっかけになった神様です。その五穀の神様が正月の間、ずっと依り代としての入っておられた「お餅」を食べることでその霊力を分けて幸運をいただくと信じられていました。

他にも、鏡餅には「歯固め」という意味があります。歯が丈夫であることは、一生食べられるので長寿の要として新年の健康と長寿を願い固くなった鏡餅を食べるようになったといわれます。もともとの今のような鏡開きは、室町時代や江戸時代の武家社会で行われていた ”具足開き” とも言われています。

この具足開きはお正月が明けた後に具足餅を下げ木槌で割って食べる武家の行事です。本来は1月20日でしたが、徳川家光の命日と重なったので変更になりました。関東では1月11日に鏡開きをしているところが多いです。関西では小正月の1月15日に行います。

またこの鏡開きのお持ちの食べ方ですが、私たちはいつも「かきもち」にします。このかきもちの「かき」とは、手や鎚で割ることを「欠き割る」ということから「欠き餅」になったといいます。

衛生的にも安心というのもありますが、何より油で揚げた揚げたてのお餅の美味しさは群を抜いています。塩を少し振りかけて食べるのですが、まるで餅つきしたつきたての時のような新鮮な味わいがあります。力が甦生するのです。

もう何百年も前から続く風習ですが、この行事の一つ一つを丁寧に取り組むことで豊かさと有難さ、また伝承の知恵の持つ偉大さを感じるものです。

子孫のためにも時代が変わろうが環境や教育が変わろうが、変えてはならない豊かな仕合せと感謝と喜びのためにも丁寧な暮らしに取り組んでいきたいと思います。

五感と対話する

私たちは五感を使うことに本能的な喜びを感じるものです。もしもこの身体に感覚がなかったらと思うとゾッとします。すべての生き物には感覚があり、それを使うことで地球での生活を謳歌しているともいえます。

この感覚こそが、天からのギフトで魂が最も望んでいるもののように感じます。例えば、触るということや味わうということなど、私たちはこれを感覚を使って行います。この感覚の正体とは何か、そこに私たちの本体や本能が宿っているはわかります。

星空を観ては宇宙のかなたにある壮大なものを直感するという感覚であったり、夕陽を観ては美しいという光と水の変化を察知したり感覚は全てを受容しています。その受容は、感性を研ぎ澄ますことや魂を磨くことによってさらに鋭敏になっていきます。

知識というものや認知はあくまで感覚を表現するためにあるもので、感覚を使わないことがいいのではありません。今の時代は、感覚を捨てて便利なもの効率的なもの、簡単に結果がでるもの、見た目だけをコーティングするものが流行っていますがまさに感覚が鈍っていることを感じます。

感覚を鈍らさないためには、日々に感覚を使うことですがこれは暮らしを磨くことで伸ばしていくことができます。

日本の先人たちの暮らしをよく鑑賞していると、そのすべては五感をフル動員して用いていることがわかります。それは民芸品にしても食事の道具、作法にしても、また掃除やお手入れなど全般に洞察することができます。

私が暮らしフルネスの実践をしているのもまた、その感覚を磨き現代とのバランスを調和するためにも必要だと実感するからです。感覚を味わう、感覚を楽しむというのはまさに魂を磨くことになりこの世に産まれてきた一つの安心立命の境地を得るためのようにも私は思います。

引き続き、様々な感覚をバランスよく味わいながら五感と対話して日々を澄ませていきたいとおもいます。

強く優しく寄り添うこと

正月の能登半島地震の知らせから被災地のことを思っています。同じように同じ国で正月を過ごしても、場所によっては大変な出来事に遭遇しそれまでのあたり前が完全に破壊されることがあることに改めて他人事には思えませんでした。

特に私たちの暮らす日本列島は、地震や火山、そして台風や洪水など自然災害が最も世界でも多い国です自然への畏敬を忘れて謙虚さを失った頃に、自然から畏敬を忘れるなと警告されるかのように災害が次々に発生します。

私は東日本大震災の時に、津波や原発事故の犠牲者を追悼するときに心にとても大きな衝撃を受けてこのままではいけないとそこから様々な生き方と暮らし方をずっと改善してきました。その後に新型コロナウイルスの感染症が流行り、ブレずに着々と地道に子孫のために必要なことを譲り遺していくために「徳」を大黒柱にして取り組んできました。

具体的には古いものを磨き直して甦生して知恵を伝承する仕組みや場を醸成したり、新しいテクノロジーを使って古くから連綿と大切に守られてきた自然循環を可視化したり、かつて当たり前であった自然の恩恵に対して徳を積むことを主軸に、金銭面などの周囲の心配などをよそに邁進してきました。

現在、日本人は世界でも自分のことしか考えない人が増えているといわれているといいます。心の冷たい人が増えたというのは、それだけ心の余裕が消えるような現代や教育の環境の影響を受けたともいえます。みんな時間に追われて、当たり前であったことを見失ってしまっているようにも思います。

しかし、地震などの自然災害で大変な思いをなさっている方々を観るとき離れている私たちには何ができるのかを真摯に向き合うと無力さを感じながらもこの当たり前だったことをもう一度見直し、感謝して暮らしを調えていくことではないかと私はいつも思います。

元々、私の取り組んでいる「暮らしフルネス」もまた東日本大震災の犠牲者の方々の死を決して忘れないと取り組んできたものです。人間中心の飼育された社会のなかで、感性を鈍らせない、野生を忘れない、本能で生きることを大事にすること。そして、先人たちの思いやりや遺徳、知恵を真摯に伝承すること。未来の子孫のためにも、自分たちが暮らしを通して道をきちんと結んでいくこと。これらのことを実践するために起こした事業が暮らしフルネスの本懐です。

私の言う事業の定義とは金もうけのことをいうのではなく、徳を積むことをいいます。利益というものは、本来は子どもたちのものでいいのです。尊敬する先人たちの事業で今でも遺っている素晴らしいものはすべて子孫のために実践されてきたものです。

自然は、平等に人々に災害を与えてくれます。だからこそ、自分の代わりに被災してくださった人たちのためにも自分が何を変えるのかを真摯に考えて生き方を見直していくことがその恩に報いることになると私は思います。

もちろん緊急性のある支援はできることをよく吟味してすぐに行動できるものはやることだと思います。しかし長い目で観て、数年、数十年、数百年先に何がもっとも被災地の子どもたちのためになるのかなどを思うとやはり自分の生き方を変えることだと感じます。

引き続き、私は悲しみに寄り添いながら初心を忘れずに暮らしフルネスの実践と伝道を強く優しく寄り添いながら続けていきたいと思います。

徳の積み方

商売というのは、奥深いものでその商売によって救われる人たちがたくさんいるものです。近江商人が商売の道の中で、売り手よし、買い手よし、世間よしがありますがみんの仕合せや喜びが、どの範囲まで広げているのかでその徳の積み方も変わってくるように思います。

結局、人間は生き方で何のためにそれをやるのかということが大切なのでしょう。利益というものもまた、その利益は何のために使うのかが求めてられていますし、利益を自体が何をしてでたものかということも関係があります。

お金があるかないか、売り上げがあるかないかではなく、何のために事業をしているのかによって事業を実行するために資金が必要という意味ではお金や売り上げは後になっているのもわかります。

松下幸之助さんの言葉に、「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。」があります。これもまた相手のためになるものを考え、世の中がどうすればよくなるかを考えて事業をせよということかもしれません。

自分がどうあることが、世の中が善くなるのか。そこに経営理念というものがあります。経営理念を実現するために事業が必要で、その事業を継続し発展するために利益があるということでしょう。

これは身体に置き換えてみるとわかります。何のために生きるのかを初心として、それを実践するためには健康も安心も平和も必要です。日頃から体力をつけて、健康を保ち、日々に心を調えて内省し、今を大切に使って精進していくなかで継続し発展していきます。そしてその初心や理念に共感する人たちが現れまた継承していくのです。

人類は気が付くと、最初に目的を定めたところを後続が色々な方法で試行錯誤していく真っただ中です。例えば、平和な国家を築こうとしてはじめてその方法が色々と時代の影響を受けて変化していきます。1000年経っても、2000年経っても実はあまり変わっていません。しかし、本当は何をしているのかということを鑑みるとき原初の目的を追い続けているということがわかります。

例えば、人は魂を磨くということを目的に産まれてきます。すると、人生はその道場ということになります。善いも悪いもなく道があるだけというのはそういうことかもなのかもしれません。

だからこそ、自分の今を真摯に取り組む中で必要なことは、目的に照らしながら創造することが大切なことのように思います。そうすると、利益とは何か、事業とは何かということの本質も姿を顕していくからです。

子どもたち、子孫のために徳を積んでいきたいと思います。

恵みに感謝

全国各地に商売繁盛の神として知られる七福神の一人に、「えびす」さまがいます。ちょうど十日えびすのお祭りがあっているので少し深めてみます。

この「えびす」さまは、ウィキペディアの分類によれば「日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。」とあります。

「えびす」さまの名前はとても有名ですが、以上のように外来の神様や渡来の神様、海からの漂流物など、はっきりとしないあらゆるものが混ざり合った姿として存在があります。また一説によれば古代の鴨族が田の神様として祀っていたとか、海人族安曇氏の氏神様であったとか、謂れがあります。この古代の安曇族は本拠地は北九州の志賀島一帯で遠く中国まで交易をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族だったといいます。水軍を持ち、あちこちに移住しその勢力を拡大した一族です。

もともと日本という国は島国で海路と海の恵みによって豊かな暮らしを育んできました。内陸も今よりも内海や河川が自然のままで、船によって内陸との交易を発達させてきました。

海がある御蔭で私たちは世界とつながります。今では空もありますが、古来は海が中心でしたから多様な文化を受け容れる神様の御蔭で人類は交流を持ったように思います。

そしてこの「えびす」さまは、その象徴だったように思います。

今では商売繁盛のご利益が有名で、よく大黒天と一緒にむかしはお祀りされていたといいます。私の古民家でも常に厨房やおくどさんにはえびすさまと大黒様を一緒にお祀りします。これは豊かさの象徴に感謝するためでもあり、その見守りの中で暮らしが成り立っていることを忘れないようにするためでもあります。

海の恵み、田の恵み、自然の恵みによって私たちは生きていくことができます。いくらお金があっても、これらの自然の恵みがなければ私たちは生きていくことができません。

今、ちょうど十日えびすで私のいるBAでも恵比寿様をお祀りしていますが改めて恵みに感謝する日にしたいと思います。

 

役割を磨く

それぞれにはそれぞの役割というものがあります。太陽には太陽の役割、地球には地球の役割、そして月にもそれぞれに役割があります。みんなそれぞれにその役割を全うしていて、全体として一つとしてお互いの役割を享受しあいます。それをミクロにすれば、ほんの小さな細胞や菌類もまたそれぞれの役割を果たします。シンプルに観れば、それぞれにそれぞれでいるだけです。それが役割の本質です。

誰かのために役割を果たそうするのは、本来のその役割ではないように思います。誰かから与えられた役割を果たすというのは、わかりやすいですが本当はそれぞれに役割があると考えることの方が本質です。

しかし現代は、幼い時から誰かの都合で役割を与えていますから役割は誰かから与えられるものと思い込みます。役割は自分を全うするときに自然発生的にやってくるとはなかなか思えないものです。

例えば、先ほどのことであれば太陽に月をしろといってもできませんし、地球に月をしろとはできません。ひょっとすると数十億年の単位では役割が交代することもあるかもしれませんが現時点ではそれは必要ありません。

役割というのは、その時々に今を真摯に生きているからこそ自然にそれが発生するのです。今を真剣に生きているとき、それまでの役割が移動していき新たな役割もまた誕生します。しかし自分がどうあることがみんなを幸せにするのか、そして自分が最も仕合せなのかを追及していくさきに役割が醸成されます。

頭で考える役割よりも、自分らしく自分を真摯に生きていることが役割だと思えることは安心なことです。

安心しあう世の中というのは、そうやってみんなが役割を味わい、役割を感じ合う生き方です。別に税金を納めなければ価値がないとか、五体が満足に動けなくても高齢であっても、存在そのものに偉大な価値があるのです。

役割という価値に気づくことは先ほどの太陽や月や地球に感謝することと同様に偉大ななことだと私は感じます。それぞれの役割に感謝して、役割を大切に磨いていきたいと思います。

今という奇跡と奇蹟

私たちは日々に奇跡を生きている存在です。本来は当たり前はないのですが、次第に頭で当たり前を思い込んでいくものです。例えば、日常生活が普通にできることや、家族や仲間がいなくなることもなく、健康で怪我も事故にあうこともないと当たり前を設定していきます。しかし、ふとそうではない事件に遭遇したり思い込んでいる当たり前が消えたときにはじめて当たり前はなかったということに気づくのです。

この当たり前はなかったというのに気づくのは、死別などが最もわかります。昨日までいた存在が消えてなくなるのだからそれまでの当たり前はなくなります。親がいて当たり前、子どもがいて当たり前、親友がいて当たり前という日常が突然消えてなくなるのです。もちろん病気や災害、他にも多数の出来事が当たり前がないことに気づかせてくれますが何かが失われてはじめて気づくのがこの奇跡というものです。

つまりは、私たちの日常こそが奇跡であり何か特別なことが発生することが奇跡ではないという事実。奇跡しかないこの事実に対して、自分はどう奇跡を感じているかというものが人生の醍醐味とも言えます。

そしてこの奇跡には、また「奇蹟」というものもあります。一般的な奇跡は理屈で説明できない摩訶不思議な現象のことをいいます。しかしこの「奇蹟」は神様が何か意思を持って起こしたものといいます。自然現象と神様が起こしたものという奇跡です。実際には、奇跡は自然発生だと感じるもので、もう一つはそれをどう受け止めるかが奇蹟というもののように解釈できます。

私たちの暮らしは、二度とない一瞬でありもう同じことがあることはありません。同じことが起きていると錯覚するのは脳の処理の間違いであり同じように観えても、同じことは決して起きません。まさに一期一会なのです。

私も今は骨折して以前のように歩けませんが、本当は当たり前に歩けたことも奇跡だったということ。そして今も歩けないことは当たり前ではないということ。どれも人生において一期一会で有難いということ。

感謝で生きていくということはつまり当たり前ではないと生きていくことです。

今に集中するとは、この当たり前ではないことに集中するということでもあります。二度とない今を大切に、いただいている一期一会を素直に感受し謙虚に取り組んでいきたいと思います。

真心を磨く

人は物事を観察するのにどの時点で観ているかによってその評価が変わってくるものです。目先のことだけを見て判断するのと、一貫して長期的に観て判断するのとではその奥深さも広さも変わってきます。例えば人物を観るときも同じです。その人がどのような人かを観察するのに世間や目先の評価ではわかりません。その人は人生を懸けて何を実現しようとしているのか、どのような初心を持っているのかでやっている行為や物事の本質がわかります。さらに言えば、どうありたいかという生き方は行為や物事とは関係がなくその人物の呼吸一つ、行動一つに顕現されていくものです。だからこそ、心ある人に触れると人は感動するように思います。

以前、教養とは人の心がわかる心という言葉を聞いたことがあります。この教養とは知識がある人のことをいうのではなく、その知識を実際の暮らしの中で実践できる人を言います。つまりは、知識としてのテクニックで生きているのではなく知恵もあり真心で生きているということです。

真心の人というのは、感謝や思いやりの心に溢れています。そしてそれを活かして実生活を営むのです。日本人の懐かしい暮らしを学んでいると、そこから元々の日本人の姿が垣間見れます。

小さな生き物や植物をはじめ自然を愛でる心であったり、もったいないと最後まで大切にいのちを使う繊細な気遣い、また五感を優先しすべてのご縁にたいして誠実であったり、感謝や素直さを忘れない明るい誠実な態度であったりと真心の人が観えてきます。

頭だけがよくなっていくら知識が増えても、心が通じ合うわけではありません。人は頭がよくなくても心で行動していれば人を感動させ心が分かち合えるものです。

有難いことに私の周囲には真心の人たちがたくさんいて、いつもそのことに救われ、あるいは癒され、幸福を味わっています。真心で生きる人たちと一緒にいることは、真心を磨き合うことができるということです。

この世に生まれてきて美しいことが体験できることほど仕合せなことはありません。自分がどうありたいか、それは生き方が決めます。先人たちに恥ずかしくないようにまた子孫のためにも真心を磨き続けていきたいと思います。

暮らしフルネスの場

音には波動というものがあります。正確には空気を振動しているのですが、ここには単に振動させるだけでなく何か別のものが合わさってきます。それを反響音とも言いますが、これもまた波動の重なりと響きです。

例えば、単に音を出すのと心を練って音を出すのは異なります。これは調理と同じで、マニュアル通りにつくるのと丹誠を籠めてつくるものとは異なります。それは何処に出るのか、調理なら味に出ます。舌先ではなく、心の味が伝わってきます。音であれば単に聞こえるのではなく、聴いています。これは感覚の方のセンサーで察知することができるという意味です。

そして場というものにもそういうものがあります。場にも心は宿ります。単に場所があるのではなく、その場にいくと心が落ち着いてくるのです。それは単に日々に忙殺されて業務をしているのではなく、場をつくる暮らしをしているのです。これが私の実践する暮らしフルネスです。

心で生きている人は、いつも心の方を観つめ感じています。頭で処理をするのをやめて、耳は心を傾け、目はあるものを観て、舌は余韻を味わい、風の薫りを感じ、手触りで物事を感受してご縁を結んでいます。人はこの感覚を使うとき、多幸感に包まれるものです。そして同時に深い感謝の気持ちがこみあげてくるのです。

この世にいて生きていると実感するのは、きっとこのような感覚を生きることです。それがなくなることを人は忙しいというのでしょう。今では忙しいことが当たり前、猛スピードで自転車操業することは普通のこと、時間がないことを自慢しあうような風潮のなかではその感覚はみんな失われていくように思います。

感覚というのは不思議で、感謝のように継続的に日々に磨いている人でないとセンサーが閉じていくように思います。閉じたものをたまに開けるではセンサーは磨かれません。

だからこそむかしの人たちは、日々の暮らしのなかでセンサーが鈍らないような工夫を凝らしていたように思います。私の言う、暮らしとはこのセンサーが働き続けていることをいいます。単に非日常のことや、道具をそろえたり、好きなことをやることをいうのではなく日々を磨き続ける実践のことです。

私の中で暮らしを通して当たり前を変えてからは、場がより磨かれてきたように思います。場道家として恥ずかしくないように、真摯に実践をして子どもたちに場を調え、場を譲り伝承していきたいと思います。

お米と結ぶ

今年は稲やお米に関わることが増える年になる予想があります。そのため改めて日本の稲作の信仰から学び直しています。稲荷信仰というものもあり、日本ではむかしからお稲荷様をお祀りしてきました。私もむかしから佐賀の祐徳神社に深いご縁があり、折をみては参拝し、場の道場にも祐徳石風呂にお祀りしては祈祷をしています。

そもそもこの稲荷信仰の始まりはいくつかの説があります。弥生時代からという説があり、私も稲作と同じころにはじまったのではないかと感じます。以前、京都の鞍馬寺でむかしの和鑑に稲と蜘蛛とトンボなどが共に描かれているものを拝見したことがあります。お米を守る生き物たちを同じ神様としお祀りしていたことがわかります。

他にも稲を守る生き物たちは、カエルがいたりカマキリがいたり色々とあります。そしてむかしはキツネがとても重要であることが分かります。民俗学の柳田国男氏は、かつて狐を田の神の使令と考え稲田の近くに塚を築いてこれを祀ったのが狐塚であること後に稲荷の小社が勧請されたちいいます。田んぼの周囲で子育てをし、野ネズミなどを食べて田んぼを守った動物として狐を田の神の使令さらには田の神が仮に狐に姿を託しているものと考えたといいます。

今ではキツネを見かけることはありません、動物園にいるくらいです。他にも山にはオオカミがいて田んぼを荒らす生き物を追い払っていました。人間にとっては、時には敵対するような生き物たちを神様として大切にかかわることでお互いに共生関係を築いたことがわかります。

日本人は和に通じていて、なんでも仲良くなろうとします。疫病の神様をお祀りしておもてなしをし、早々に満足して立ち去ってもらおうと神社を建立して供物や神楽を捧げたりもします。

なぜ今も神様としてお祀りしているのか、そこには日本人の精神性や生き方が大きく影響していることがわかります。つまり信仰とは、その民族の生き方なのです。今では環境としての自然が失われ、なぜこれをお祀りするのかなどの意味の伝承も場から失われています。だからこそ、今の時代も本質を磨いて、意味を甦生し、後世の人たちに伝承する使命を感じます。

お米について取り組めることはとても仕合せです。色々なことを手探りでつかみ、多くの人たちに結んでいきたいと思います。