月の徳 十三夜

今日は、徳積堂で十三夜祭をします。生憎の朝から雨で、果たして月がどうなるのか、ここ数日間ずっと月待ちです。しかしこの月待ちという心の中には、豊かな風情があります。月をじっと待つ心境は、どこかなるにまかせた気持ちがあったり、夜の中の見守りに対する安心、また一期一会の出会いへの感謝などがあります。

平安時代、宇多天皇の世くらいからこの十三夜ははじまっているようですが私はこの後半の月の方が懐かしさを感じます。十五夜から十三夜までを月待ちするのも、暮らしフルネスの風情の一つになっているからかもしれません。

むかしの人たちは、この十三夜をどのように感じていたのか。私が尊敬している西行法師にはこういう和歌が遺っています。

「雲きえし秋の中ばの空よりも月は今宵ぞ名に負へりける」(西行法師)

確かに、十五夜は雲一つない眩いばかりの満月でしたが、十三夜はどこか雲に隠れたり雨の影響があったりと弱弱しい中でも美しく煌びやかな様子に風情があります。また十五夜は男名月といい、十三夜は女名月ともいいます。この「十五夜」の月と「十三夜」の月をあわせて「二夜の月」といって両方の月を同じ場所で見ると縁起が良いと伝承されてきました。

そしてどちらもお月様に感謝して収穫を祝うお祭りでした。十五夜は芋名月で芋三昧でしたが、十三夜は豆や栗などをお供えする豆名月、栗名月ともいいます。なんとなく、十三夜のお月さまの方が、豆や栗のような感じがするもの不思議です。

むかしの先人たちは、見立てによってあらゆる月を連想しそれを味わったのでしょう。今日は、夜は雨なら様々なものを月に見立ててみんなでこの十三夜を味わっていきたいと思います。

最後に松尾芭蕉はこういう和歌を遺しています。

「夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿(うが)つ」

今年は栗がたくさんあり、お供えしていますが虫たちもたくさんいます。人間だけでなく、みんなでお月さまのもとに集まり分け合いながら月の徳を循環させていきたいと思います。

銀杏の徳

昨日も来客が多かったのですが、せっかくの機会だからと古民家和樂でみんなで銀杏拾いを楽しみました。はじめての方も多かったのですが、みんなで銀杏の香りのするお庭で銀杏を拾いました。

不思議ですが、最初は鼻につくようなにおいがするので苦手という人もいるのですが拾っているうちに臭いはなくなります。実際に臭いから拾おうとしない人もいますが、実際に拾ってそのあとすぐに炭火で焼いて食べるとその実の美味しさにみんな魅了されます。

特に拾ってすぐの銀杏はまだまだ実が青々としていて宝石のように綺麗です。割るのが大変という人もいますが、今は銀杏焼き網と銀杏用のペンチも販売していますがすぐに調理することができます。

そもそも銀杏の実が臭いと感じるのはなぜでしょうか。もともとこの独特の香りは、種が食べられるのを防ぐために行われています。銀杏の種を遠くへ運ぶため、この銀杏の実を持ち運んでくれる存在のためにこの姿になっています。

他にも果物をはじめ、すべての果実はある特定の生き物たちが食べたり運んだりしてくれるように自然に備えていきました。例えば、鳥であれば果実を食べて糞として落としてくれたり、どんぐりなどはリスが巣に持ち帰る過程で広がります。

動物たちの修正を利用して、果実を食べてもらいその結果として広げていくのです。銀杏は果たしてどのような動物のためにこうなったのか。銀杏は生きた化石とも呼ばれ、古代の氷河期の前から生き残ってきました。

その当時、人間は果たしてこの銀杏を食べたのでしょうか。

しかしその絶滅寸前の銀杏が今でも生き残り、その実を私たちが食べることができるということに壮大な浪漫と深い感謝が湧いてきます。銀杏拾いをしたみんなも、心が落ち着くや懐かしいなど笑顔が絶えませんでした。

私たちは時代も世代もあらゆるものも超えて、懐かしいものを懐かしい銀杏と共に感じているのかもしれません。銀杏も拾ってくれて嬉しいからこそ、私たちも嬉しいと感じているのでしょう。お互いの関係性がいつまでも結ばれて続くように、丁寧な暮らしを紡いでいきたいと思います。

ご縁を結ぶ

ご縁というのは人と人とのものだけではありません。私たちのご縁は風景や物体、あるいは時や自分自身というものなどあらゆるものの中にあります。このご縁は言い換えれば、関係性の中に存在しているともいえます。もっと深めると、反射や反響というようにお互いに結ばれるときにご縁としているのです。

つまりご縁が結ばれてといいますが、実際には「結ぶ=ご縁」であり二つが一つになるときに私はご縁があったと認識しているように思います。この時の、二つというのは先ほどの関係性の中で感じるものということです。

例えば、私たちは自分で何かを選んで生きているという認識があります。この花を一輪挿しにいれてある場所で活けるとします。花を選んだのも、一輪挿しの瓶を選んだのも場所も選んだのも自分です。しかし、花に私が選ばれ、瓶に選ばれ、場所に選ばれたのが自分だともいえます。これはお互いが選択し結ばれることでそうなったということです。

つまりご縁というのは、どのようなものでもお互いが選択しあっているということです。ここには絶対的な主体性があります。しかし人間は利己的が過ぎると、全部自分でやっているかのように錯覚します。特に自分以外の何かがはたらいてそうなったとは思わず、全部自分が勝手にやったかように錯覚します。事実は、そうなるご縁を結んだということでお互いに選択しあった妙によって発生しているのです。

このご縁というものを感じやすくなる方法の一つは、導かれたと意識することです。導かれているのなら、なぜそういう関係性が発生したかをよく内観してみることです。そうすると、今の自分にもっとも相応しいご縁が導かれている瞬間が感じられます。

一期一会に、導かれていると感じているのならその一つ一つの兆しや意味にも気づきやすくなっていきます。私たちはご縁を大切にすると、ご縁が集まってくるものです。自分が集めたのではなく、ご縁によって集められていくのです。

これを感じるとき、奇跡のような絶妙なご縁を知り、ただ感謝するように思います。よく出会いは必然という言葉も聞きますが、これはお互いが必要としたからということでしょう。

そのご縁に気づいてご縁を活かせるかというのが、自分の選択の正体ということでしょう。丁寧な日々を結び、よく聴きよく味わっていきたいと思います。

食の伝承

私が郷里で尊敬しているおばあちゃんがいて、昨日はその方と伝承について御話を伺いました。私は以前、色々な語り部の長老とお会いしたことがあります。その長老と同じ風格があり、言葉の一つ一つが心に沁みこみます。

私たちは体験したことでこれは大切であると歴史的に結ばれている話を聴くとき、魂が震えます。それは神話も同じです。大切なことほど、口伝によって伝承していくのです。

現代は、知識が優先し文字が発達しています。映像や写真も便利ですが、口伝にあるような智慧や歴史は入っていません。これは子孫や民族にとっての大変な損失であり、これによって私たちは結ばれてきた歴史を忘れてしまうのです。

おばあちゃんは、幼い頃に体験してきた食事やその味を後世に繋いでおられます。ただ繋ぐだけでなく、子どもたちや今の人たちの健康が保たれるようにと愛情をいっぱいのものを新しく創ります。これは商売ではなく、伝承として取り組んでいるのです。

私は恩送りや徳積などと深く関わっているためか、おばあちゃんの愛情が次の世代へと譲り渡されていく様子に心が感動します。おかあさんやおばあちゃんの味は、懐かしい味であり歴史の味であり、心のふるさとです。

おばあちゃんは、実践者で語り部ですから本もたくさん出版しています。その本のサインにはこうあります。

「食べたものは一生もの、心のふるさとになる」と。

今は、食に情緒がありません。本来は食べることは、人間が産まれてきて死ぬまではじめて充たされる経験を味わえるものです。ただ充たすのか、それとも愛で充たすのか、そこには豊かさの本質が深く関わってきます。

時代が変わり、食事をつくる側も仕事になっていたり、食べる方も単に栄養をとるだけのものになっていたりします。本来は、情緒を味わったり、お互いの徳を感謝しあうものだったりと食はその人の心を形成していく大切なものです。

食が心と結ばれているということを忘れたなら私たちの歴史もまた忘れてしまいます。食の味は、心の味であり、歴史の味であることをいつまでも忘れず、私も伝承者の一人として覚悟を定めて徳の精進をしていきたいと思います。

真の調和

調和というのは、渾沌のことです。これは自然そのものの姿です。自然は常に調和していますが、その意味は自然は常に渾沌としているということです。そしてその自然を感じるとき、私たちは渾然一体となっています。この渾然一体こそ、私がイメージする徳の本体であり徳を可視化顕現するときの様子です。そしてそれを「場」によって実現するのです。

場というものは、その中にあらゆる個性や持ち味のものが混じりあいます。無秩序で混沌とするのです。しかしそれは別の観方をすれば、それぞれの個性や持ち味が活かされているということに気づきます。そしてそれを味わうとき、私たちはそのものに徳が具わっていることに気づきます。同時に、自分の徳をあるがままに認めることができるのです。

世界や人類は、この渾沌を否定し、調和を別の意味に置き換えて刷り込みました。具体的には、みんなに合わせて大人しくしていることを調和などと教えます。自分あるがままを否定し、周囲に合わせて自分を消していくのです。そんなものは調和ではありません。私は徳積をライフワークにしていますから、自分らしく自分のあるがままで言行一致の生活を心がけています。すると、それは周囲からは変人や尖がっている、またある人からは狂っているとさえ言われますが私に言わせればそれはお互い様でしょうと思います。

みんな自由でいいといっても、自由を優先すると以上のように周囲に合わせないことを否定され、時には自分勝手にやっていることが周囲に嫉妬されるものです。しかし自らが自然の渾沌を否定したら、自然は不自然になりその分、分かれていくばかりで渾然一体に入ることはありません。

この肉体をはじめ、私たちはすべて渾然一体です。ありとあらゆる臓器をはじめ、腸内の菌類もすべて渾沌としたなかにいつも存在しています。その渾沌を否定して、もし臓器を一つの機能だけにしたり、腸内細菌を一つだけにしてあとは全部殺菌したらどうなるでしょうか。そんな馬鹿なことをする人はいませんが、実際には都市化された日常の中ではそれを誰も疑わずに常識だと周囲に押し付けようとします。

あらためて今こそ、人類は原点に帰りこの渾然一体であることの大切さを學び直すときに入っているように思います。世界大戦戦争前夜で、戦争はやむなしとその後の世界を語る人もいますが、それもまた渾然一体を否定して調和を歪ませているだけではないかと思います。

一人一人が、日々の暮らしの中で真の調和を実践することで世界は変わっていくものです。徳の世にするというのは、渾然一体の自然の叡智を生きることです。

子どもたちのためにも、自然に寄り添った共生と渾然一体になるような場を磨いて伝承していきたいと思います。

治癒の徳

自然治癒というものがあります。これはもともとすべてのいのちは治癒する力を持っていてその力によって自ずから治癒するということです。この治癒は、人体であれば自らの自然免疫力で病気を治癒するのと同じです。

一般的には私たちは刷り込みがあり、治癒は病院の先生や薬がするものと勘違いするものです。しかし実際に病院の先生は診断をし知識や技術があるだけで薬は実際には毒でもありますから治癒するのは自分の力で行っているものです。

つまり自然治癒というのは、元来産まれながら具わっている治癒力によって行われているものということです。これはすべてのものが宇宙の一部であることの一つの証明でもあります。

私たちはこれを自然でも同じように行います。自然こそ自然治癒の存在そのものです。自在自由に自然は全てのものを治癒します。人間がたとえ人工的に自然の治癒を破壊し続けたとしても自然はいつかは元通りに治癒します。それは宇宙の仕組みであり自然も地球も一部だからです。

現代の病気の治療のように、人間は自然を科学的な見地によって「人工的に治癒しよう」とします。そもそもこの治癒というのは人工的にはできないものです。せめて加工という言い方の方が近いように思います。事実は治癒そのものは人間の限られた知識でするものではなく、自然の叡智で治癒するのをお手伝いすることしかできません。叡智には人間は敵いません。そして人間は自然の一部ですから人間が治癒されることによって同時に自然も治癒します。

人類が治癒することの根本に気づけば、人間は自然と共生をはじめます。自然と共生するからこそ、自然治癒を一緒に助けていくことができるのです。病気というのは、この治癒の根本を忘れてしまい治癒を誤解し治癒できる気になっていることです。治癒は自然の営みです。

よくよく自然を観察すれば、治癒する力は膨大に私たちの全生命に降り注いています。それが自然では水をはじめ土、火や光などに姿を変えて治癒を感じます。

真の治癒をどう人間が思い出すか、そのために治癒に気付ける仕組みが必要です。暮らしの中で、その治癒の徳を実践していきたいと思います。

捨てるということ

人生は選択の集積ですが、そこで要らないものを捨てていくという作業をしています。自分には要らないと思うものを捨てていくのですが、実際には捨てれないものばかりが出てきます。この捨てるというのは、磨いて削るということでもあります。実際には、簡単に手放せるものではなく何かのたびにそのものと正対してそれを体験し、そこで学んだことを糧に自分を変えていくということです。

つまり人は一生懸命に、自分の初心を貫いていくように生き方を定め道を歩めば自然に磨かれて削られていく。その最中、私たちは何かを捨てているということになります。

そして同時に拾うというものがあります。この拾うというは、新しい発見やご縁に恵まれるということです。私たちは、自分という玉を磨いて光らせていけばいくほどに余計なものを捨てていき、同時にその光によって新たなものを反射させていくことで拾うということです。

人が手で持てるものはほんの少しです。いくら持とうとしても自分にもてる限界があります。では何を持つか、いや、何を持たないかということです。その持ち方においても、ずっと持つや、大切に持つや、一端持たないか、持つことを忘れるかなど、色々と経験します。そうやって、捨てることや拾うことの他に捨てないや持たないなどということも学びます。そして、持させていただいていると境地や、捨てさせていただく、拾わせていただくといった磨き方にまで発展していきます。

この要らないものを選択するという行為は、磨き方に結ばれ、ただひたすらに磨く喜びに出会い続ける道です。

磨く喜びは、毎日、この今、一瞬の中にあります。どのように磨いていくのか、そして磨きたいかは、その人の一生をずっと彩りますし、その磨いた光は子孫代々まで続いていきます。魂の本体は、この光にあり磨く中で自覚するものかもしれません。

徳を學ぶということは、シンプルに言えばこの磨き方を學ぶということでしょう。

子孫のためにも、今を丁寧に磨いてすべてから學んでいきたいと思います。

秋の場

よい場というのは時間をかけて醸成していくものです。場づくりというのは、そこにどれだけの心で正対してきたかという思いの集積があります。澄んだ心で接してきたなら、その場は澄み切っていきます。逆に澱んだ心でその場にいけば澱んだ場ができてきます。場を調えるとは、お掃除やお手入れ、また配置や布置を丁寧に直し、ありとあらゆるいのちを感じて感謝していくなかで実践していくものです。

長い時間をかけて取り組めば取り組むほど、場は揺らぎません。場が揺らがなくなると、自分もまた揺らぎにくくなっていきます。その理由は、場が応援してくださっていくからです。場が応援するというのは、場が変化し場が主人を助けようとするからです。

これは家でも同じです。家というものを、一つの生命体と思いいつも気をかけてお手入れを続けていくと家が落ち着いてきます。これは家がその家族と一体になっていくからです。これは家でなくても部屋でもできます。部屋を調えるのは先ほどのいのちへの感謝と同じです。まずは、いのちを感じているかということが重要です。

私たちは無機質な物質であっても、まるで生きているものとして接することができます。そうすることで、不思議ですが無機質な物質が物質ではなくなり生きている存在のように変化していきます。これは場づくりの基本です。そして感謝をすることで、また丁寧にお手入れをすることで関係が結ばれていきます。

お互いに思いやり結んだものを大切にお手入れしていけば居心地がよくなります。居心地のよさは、お互いの思いやりや感謝が循環しているということです。これを徳ともいい、私たちは暮らしの中でその徳を磨いて自他や子孫の仕合せを生きてきました。その道具たちは、今でもたくさん遺っています。

私の身近には、大切にされてきた道具たちがたくさんあります。その道具を、また丁寧に磨き直し、持ち味を活かし、新しいお役目を共に喜び合います。その時、場が一斉に喜び、応援してくれるのです。

いのちは、新たな役割があればそれを受け容れ燦然と輝きます。すべては全体快適であり、自然や宇宙は役割交代や役割循環を楽しんでいるかのようです。

季節は廻り、秋になります。秋は秋の美しさ、喜びがあり、先人たちは深く秋を愛しました。秋の場を、調えていきたいと思います。

ブロックチェーンアウェイクニング

飯塚にはブロックチェーンアウェイクニング(BA)場があります。ここにはブロックチェーン技術を見守りお祀りする妙見神社もあり、マインドフルネスをはじめ心身が調う環境が用意されています。

もともとこの場所は、私の先祖代々の土地ですが遠くには龍王山を望み近くには八龍権現池があり、高台にあるため風の通りがよく広大な空が眺められるようなところです。

このブロックチェーンアウェイクニングというのは、ブロックチェーンの目覚めという意味です。これは単なる技術だけを磨く場所ではなく、その在り方や生き方、その本筋を見極めようとする意味があってその名前にしています。

世間でよく評されているブロックチェーンは、一般的には分散型か中央集権型かと比較される技術ですが私はそのどちらかではなく、中庸でありいのちが輝くような全体快適なものであると感じています。白か黒かではなく宇宙のような発想ですが、そもそも目に観えないものをどう技術で可視化していくかが科学技術の発展ですから目に観えないものを語っても何ら問題はないはずです。

そしてこの目には観えないものを観えるようにするのに「場」が必要なのです。場とは、技術の粋を究めた場所であり思想を顕現させた技術です。

私はいつもご縁やタイミングに導かれることが多く、この場所は盟友で同志の故高橋剛さんの遺志を継いで創設したところです。彼は、心のあるブロックチェーンエンジニアで教育者でした。彼は、プログラムを打ち込む指先から自分の心がシステムに入るとよく言い真心で取り組むことを後輩たちに語り続けていました。また、技術者である前に教育者でありこの技術の在り方や真摯に取り組む姿勢を重んじました。今でも、彼の遺志は後輩に受け継がれています。

私はブロックチェーンエンジニアではありませんが、教育者という面もあります。彼の遺志を継いで、その思想や生き方、そして技術者たちにどうあることが日本や世界に真心を実践していくのかをこの場(BA)で磨いています。

一見すると経済活動とは無縁のような徳を積む活動ばかりを勤しんでいるように見られますが、実際には経世済民のど真ん中を愚直に深めて磨いています。ブロックチェーンを使った徳積帳というものを開発して、この場から教育を発信しています。

新しいものは、別に目新しいから新しいのではありません。温故知新、懐かしいものを尊重して、その大切な中心をしっかりと捉えてこの時代にどうそれを伝承していくのかということの中にこそあります。

つまり懐かしいものが新しいものに転換されていくのです。

私の取り組む場(BA)には、それがあります。時間をかけることや、次世代のことを考えること、また宇宙や地球の全体を鑑みてどう全体快適にしていくか。まだまだ道は途中ですが、場を丁寧に磨き上げていきたいと思います。

歴史の和合和解

私たちの歴史は勝者の歴史です。勝者にとって都合のよいことだけが歴史として今でも遺り私たちに受け継がれていきます。しかし歴史を深めればすぐにわかりますが、膨大な数の敗者たちがいます。その敗者にもそれぞれに歴史があり、そこには文化や伝承というものもありました。

かつての日本では、大和朝廷に服従せずに逆らう存在を「まつろわぬ民」と呼びました。まつろうが従順という言葉なので、その反対はまつろわぬということです。

かつての日本には、大小多くの少数部族や民族がありました。それを統一していく過程で、それらを滅ぼしていくのです。一部の民族たちは大和朝廷に吸収され時に結ばれ、子どもや子孫たちを多く残したはずです。私たちの遺伝子の中にもまたそのまつろわぬ人々の血が受け継がれているともいえます。

歴史ではすぐに敵か味方がとし、争いますがもしも最初から和合をするようにお互いに協力しあっていたら余計な争いもなかったようにも思います。どちらかが一方が、服従か滅亡かと迫れば抵抗するのは当たり前です。現在でも、中東の問題、欧州の問題も然りです。

力による支配というのは、その後の歴史を省みるとそのあとも簡単には解決していきません。そしてそのまつろわぬ民たちの子孫は、頭では覚えていなくても遠い記憶や遺伝子では感覚的に覚えているものです。

そういうまつろわぬ民たち、悲惨な歴史の上にある私たちはどうあるべきか。私は、そういう存在にも深い敬意をこめて祈ることだと思います。人は素直に謝ることや、認めて反省することで関係を結び直していくことができます。

どうしようもなかったことを理解しあい、お互いに学び直していこうと努力していくことで和合していくのです。現在の裁判でよく使われている和解は、あれは和解とは程遠いものですが実際の和解は時間が解決していくものです。

長い時間をかけて、私たちの肉体や精神に宿るあらゆる魂は今も和解に向けて活動しています。そういうものと一つである自己の存在に気づくこともまた、歴史を深く學ことの一つです。

子孫のためにも場をととのえ、歴史の和合和解の仕合せを結んでいきたいと思います。