人生の妙味

梅の花が咲いてきました。今年は、春のお花たちの咲く時機が遅くどうなることやらと心配していましたがそれぞれが自らのタイミングで咲いていきます。気候変動が大きく、自然界でもみんな調整に苦労しているようです。自然に繋がっている関係の中で循環している仲間たちは、それぞれにそれぞれのタイミングを合わせて共生しています。

その共生関係の中で、お互いを待ちあい、お互いを信じあい、お互いを助け合います。つまり自然は常に寄り添う関係を失うことはなく、永遠にお互いを思いやることで生き延びています。寿命というのは、お互いがあってこそ深く味わえるものです。

また私たちは、一年という季節のめぐりを繰り返していきます。回転している地球のように、ぐるぐるとまわり続けます。その中で、同じことは二度となく一期一会に出会いと別れを繰り返して様々な体験と記憶を積み重ねていきます。

有難いことに、姿形を変えても永遠に同じ地球で循環する変化として存在し続けているということ。当たり前にまた明日がきて、そしてまた翌日に明後日くると思い込んでいますが着実に時間は育っていきます。

そして時間は同じ今を生きているもの同士で、一つの即興劇を繰り返してご縁を結び合っていきます。同じ今に生きているということが奇蹟で、物語の続きを今を生きることで発展させていくのです。

一生というのは、植物も木々もまた虫も動物もみんな同様です。

どのような一生を歩んでいくのか、今、自分は一生のどの辺にいるのか。そしてどう時間が育っていていつ寿命がきて循環の節目を迎えるのか。

春は新たらしい変化を味わう素晴らしいひと時です。

すべてに感謝して、人生の妙味を味わっていきたいと思います。

変化と智慧

人は、現実を変えたいと願うとき自分を変えるか、周りを変えるかという選択をしていくものです。自分自身をさらりと変えてしまう人、また自分は変わらず周囲を変えようとする人という具合に変化に対して向き合っていきます。

例えば、道を歩いて大きな壁や巨石があって道が塞がれるとします。その際に、それを避けていくのか、乗り越えていくのか、引き返すのか、悩み続けて座ってしまうのか、それは人によって異なります。

また自然界であれば、天候一つとってもどうにもならないことがあります。その時、ミサイルを飛ばして雨を降らすと考える人もあれば、別の日にすればいいと思う人、あるいは天候を利用しようとする人など判断は無数に出てきます。

変化に強い人と変化が苦手という人もいます。変化は、ひと時も已むことはなく誰にも起きることですからその変化に対してどのように生きていくかというのがある意味人間の修行になるのかもしれません。

若くて体力がある時のやり方や高齢で体力がない時のやり方、道具が揃っているときのやり方や大勢の人がいる時のやり方、その時々にあるものを活かして創意工夫して変化に適応していくことで道も拓けます。

人は色々なタイプがありますから、準備を丁寧に時間をかけて行う人と、その場その場で智慧を出していけばいいと軽装備で巧遅拙速に行こうとする人もいます。正解がどれかというわけではなく、今の与えられている環境の中で周囲の智慧を集め、協力しあって人類は生き延びてきました。

そういう意味で、人類は多様性があり選択ができ力を合わせるという智慧を持ちました。つまり、変化に対してどう生きるかというのは「協力する」ということが最も最善であることが分かります。

協力しあう体制にしていくことが真の変化への体制づくりであり、智慧を集めようとするのが変化に強い体制になるということです。

しかしそうならないのは、分断することや孤立すること、競争させることが原因であることはすぐにわかります。管理というのは、自律していない、あるいは協力しないからこそ必要になっています。自然というのは、管理しなくても自律的に循環して理想の変化に順応しています。変化に対して人工経営と自然経営というものがあるのかもしれません。

智慧を集める経営は、一緒に取り組む中で磨かれていきます。一緒にというのは、まさに和の真髄であり日本人が磨いてきた働き方の伝統です。

子どもたちに、日本的経営、自然経営、大人の働き方を譲り遺していきたいと思います。

真心の日々と人生の妙味

何かの出来事が発生する時、その意味が本当は何かということを観察します。思い返してみると、出来事はご縁というものを直観するために発生するものです。それは小さな微細なものから、衝撃的で大きなものまであります。しかしそのどれもが、必然であり一つの偶然もありません。

例えば、自分の両親がめぐり逢い私が誕生します。めぐり逢うタイミングはまさに一期一会で、様々な出会いを積み重ねて二人は出会います。そして結ばれ私につながります。一つの感情的な出来事も寸分たがわず必然的に発生し、あらゆる困難を乗り越えて奇跡のめぐり逢いで完成しています。

ご縁というのはそれだけ人智を超えた偉大なものです。

そう考えてみると、今の私の人生も同様にこの人智を超えた偉大な真っただ中にいるともいえます。それは一言で表現すれば「お導き」というものです。

このお導きというのは、そうなるように導かれているというものです。これは必然を意味する言葉でもあります。通常、何かの出来事があったときその意味が何かを考える前にそれに動揺します。でもそこに何らかのお導きでそうなったと思えば、安心の境地を確認することができます。

この安心の境地とは、お導きにお任せするという心境や覚悟のことです。

ただお任せするというのは、確かに人智を超えた偉大なものを信じてお導き任せていくという身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという力が抜けた気楽な心境ですがだからといって何もしないわけではりません。

目の前に発生する出来事に対して、どれだけ素直であったか、謙虚であったか、あるいは正直であったか、真心を盡したかが問われるのです。人生を真摯に生き切る、そして今に集中するという生き方の実践の質が影響するのです。

時には選びたくないものや。時にはどうしても手に入れたいもの、あるいは逃げたいもの、避けたいものもあるでしょう。しかしそのどれもをお導きと感じて「引き受ける」という覚悟でやりきったかがその実践ということになります。

そしてお導きにどれだけ信仰してきたかで、本当の意味に到達します。意味を知り、人は妙味を自覚します。人生とは、道中であり旅であり、學びです。

一期一会に感謝しながら、真心の日々と人生の妙味を楽しんでいきたいと思います。

家の問題

昨日は久しぶりに古民家の解体現場に立ち会う機会がありました。200年以上前から存在する家は、大黒柱をはじめ屋根の梁もしっかりしていてあと数百年は大丈夫なうらいの頑丈で健康的でした。しかし何らかの事情で住めなくなり解体ということになりました。

もともと今でも古い民家が残っている理由の一つに固定資産税のことがあります。土地だけ維持するよりもそこに家があった方が今までは税金が安くなりました。空き家が多いのも壊さない方がメリットがあったからです。

しかし法が改正されこれからは変わります。先を見越して解体したりリノベーションしたりとこれからこの空き家問題は少しだけ動きが出てくるように思います。

ただよく考えてみるとそもそもこの空き家問題は何かということを向き合う必要があります。

経済を発展させるという名目でお金を増やし、そのことから自然破壊を繰り返し、森や川や海を壊し、平地の田畑を住宅地にして新築を建てまくってきました。数多くの住宅ローンを組ませ国家のGDPを上げていきました。この国家のGDPとは国民の借金の数値ともいえます。

住宅は一般人にとっては一生に一度の大きな買い物です。その借金を返すために働き続けているともいえます。その割に、大体30年から40年くらいで家も劣化して建て直したり引っ越しを繰り返します。ローンが終わったころにまた再ローンをするのです。ローンが組めなくなった人たちは、その家を離れていきます。それが空き家になるのです。

むかしは家は末代までとし、その家に住み地域で暮らしを営んで継承してきました。子どもたちはみんな都会に吸い上げられ、都会のマンションやアパートなどの密集した住居に入り一生そこで働きます。収入が得られたらまたそこで住宅ローンを組みます。タワーマンションなどは、狭い土地に多くの住居を入れることで利益を出します。しかし老朽化していくその建物の寿命は150年以上前の古民家とは比べ物にならないほど劣化が早いものです。

昨日、解体のものを観ていたらどれも長い時間用いるものばかりで溢れていました。梅干しの甕や精巧な桐箪笥、床の間に使われている木材などは1000年以上持ちそうなものばかりです。それを2日で大型機械で解体してしまいます。良いものも悪いものも関係なく、全部大型のゴミ袋の中にいれて廃棄です。大型クレーンと大型シャベルで上から叩き割っていきます。当然、木材も一緒に粉々です。

数百年、数千年になる歴史はなぜ失われたか。

これは核家族化の問題でもなく、地域に仕事がないからという問題でもなく、人口減少だからという問題でもなく、住みにくく不便だからという問題でもありません。

これはすべて近代の「貨幣経済」を利用し、一部の既得権益者のために仕組まれた物質化と分断、自然の循環を無視した虚像社会によるものだと私は思います。

既得権益をやめない限り、それは失われることはありません。自然はもともとみんなで共有してきた大切な財産であり、みんなで自然と共生しあって暮らしてきました。そうやって自然と人間とが助け合い、自然と寄り添い生きてきました。自然と見守り合い続けてきたからこそ、今まで生き延びてこれたのです。

家の問題は、本当は何か。

よくよく家とは何かを見つめ直して、子どもたちに原点回帰を伝承していきたいと思います。

和の徳が溢れる人

昨日、大阪の藤井寺にいる私のメンターの雛祭りの年中行事を見学してきました。全国各地から集めた人形たち、それは古いものから新しいものまで、また伝統的なものから創作したものまでありとあらゆるものが丁寧に飾られていました。

私が最初にそのメンターにお会いしたときに衝撃を受けたのは、その目利きの審美眼と数奇道の生き方です。目利きにおいては、本物や普遍的な美しいものがわかるということです。これは自然観があり、最も調和したものや心が産み出す芸術の真髄を直観できるというものです。そして数奇道というのは、風流人としての道を歩んでいるうということです。この数奇は、元々は好き者ともいい最初は好色な男という意味でしたが中世以降は茶の湯に熱心な人などたとえらます。そして風流は、一般的には人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し侘び・寂び と対峙する存在だとされました。

つまり数奇道を実践する人は、風流人であり侘び寂びを遊ぶことができるということです。メンターの古民家は、あらゆるところに「遊び心」があります。この遊び心は、今でいう「おもろい」がたくさん入っているということです。

伝統芸能には、守破離という概念があります。基本や型を守り、それを破りそこから離れるということです。そこに私は遊ぶを追加して、守破離遊が大切ではないかと感じます。遊んだ後はどうなるのかといえば、徳が顕現します。そうなると、守破離遊徳ということになります。

道は生き方ですが、一度きりの自分にしかない人生の妙味をどう味わいきるか、周囲の評価よりも自分の好きなことに没頭する人生というのはそれだけで徳を活かす素晴らしい生きざまになるように思います。

現代は、突き抜けた人や遣りきった人は少なく感じます。それだけ純度が高いことにいのちを懸けてまで遊ぼうとする人が減ってきたからかもしれません。

数奇道の生き方は、独立自尊した豊かさや面白さを感じて子ども心にワクワクします。面白い大人になって、子どもたちに和の徳が溢れる真善美を伝承できる背中を見せていきたいと思います。

いつまでもお元氣でいてほしいです。いつもありがとうございます。

共感

人は一緒に居たい人と情報共有するものです。これは情報共有とは、人生の中で一緒の体験がしたいからです。あるいは、一緒に体験がしたいというものです。

ドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーの「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にしてくれる」というものがあります。

人は一人だけでは喜びも一つです。しかし心をゆるす友がいたらその喜びは二人分になります。それはその友が自分のことのように喜んでくれるからです。同時に、悲しいことがあるとき、同じように悲しんでくれる友の御蔭でその悲しみの半分を引き受けて悲しんでくれます。

つまりまるで自分のことのように感じてくれるからです。共感とは共に在ることです。共にというのは、本来は自他一体の境地です。相手がもしも自分だったらと共感し、もしも自分が相手だったらと共有する。共存するというのは、自他の別を持たないで心を一体にしているということでしょう。

例えば、痛い思いをしている時に痛かったねと心から共感してもらえると痛みが和らぎます。またよかったことがあり苦労が報われて感動して泣いたときに一緒に泣いてくれたら感動が一生の思い出になります。

そしてこれは生きている人間だけで起きることではありません。例えば、一緒に暮らす動物においても昆虫においても植物にも同じことがいえます。お野菜を育てているなかで畑の作物を見守るときにも感じるものです。

また神様やご先祖様のような目には観えない存在であったとしても、心を澄ませば共に喜んでくれたり悲しんでくれているのを感じることがあります。これは共に在るからです。

共感というのは、本来は一緒に生きているといういのちの和合のことであり徳の循環と同じです。共にあるからこそ、苦しみも痛みも共にし、喜びも感謝も共にする。地球ではこの徳のめぐりを共にすることで私たちはいのちを分け合い、時には与えあい結び合い存在しているのです。

共感の素晴らしさは、人生の妙味そのものです。

共感するには、共感しあう相手があります。これは大変貴重な存在で一期一会です。人間らしさや人間の優しさはこの共感するという行為から育つものです。共感しあう存在に感謝して、人生の歓びや妙味を楽しみ子孫たちへその仕合せの徳を結んでいきたいと思います。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

お山縁

久しぶりに鞍馬山に来ています、このお山は私を形成していくのに本当に大きなご縁とお導きをいただいたお山です。現在の英彦山での暮らしにも深く結ばれ、お山縁を感じます。

もともと鞍馬山は、天狗大僧正がいるお山です。大地の魔王尊、鞍馬天狗です。今日は、その鞍馬魔王尊がある光明神殿の護摩供養があります。

鞍馬弘教では、鞍馬寺に祀られる尊天の一尊である大天狗、護法魔王尊、またの名を鞍馬山魔王大僧正が鞍馬山僧正坊を配下に置くとするとあります。大僧正というのは、僧官の呼び名の一つで最初が行基とあります。

私は幼い頃から源義経が大好きで義経に剣術や生き方を教えたのが鞍馬天狗とあり、心にずっと残っていました。英彦山で育ったのもあり、天狗はとても身近な存在でした。破邪顕正といって、邪道を戒め、清らかで美しい生き方を実践することを尊ぶのは正義感溢れる幼少期には憧れの存在でした。

ご縁あって、約20年以上この鞍馬山にお世話になりご指導をいただいてきました。御蔭様で、霊性を磨くことの大切さ、いのちに包まれている安心感、そして丁寧な暮らしと実践の重要性を学びました。

今の私の半分は、この鞍馬山でできているといっても過言ではありません。そしてもう一つが英彦山ということになります。

霊峰と呼ばれる霊山には、大天狗が鎮座します。

この大天狗とは何かということです。

山伏や修験者たちは、この存在を「権現」と呼びます。権現とは、自然が顕現した姿そのもののことです。この世のすべて、宇宙からあらゆるものに至るまでそのものにはそのものの徳が具わります。その徳を観つめて、徳を引き出すとき私たちは自然の叡智を感得します。

霊峰霊山は、まさに徳の蔵です。クラマ山は、文字通り、魔の蔵です。大自然そのもののいのちの塊です。このお山に来ると、何か暖かく凛とした空気を感じます。懐かしい心の故郷、日本人の自然のままの源流を思い出します。

こういう場が、いつまでも変わらずに大切にされていることに感謝ばかりです。信仰は、宗教や教義ではなく自然あるがまま、自然そのもののお姿、まさに地球のいのちです。

ありがとうございます。

石から学び直す

英彦山の守静坊の石垣を修復して甦生していますが、情報量が多くてなかなか技術が追いつきません。今では機械でもなかなか持ち上がらないような巨石をどのように石垣に配置していったのか、運び方、積み方一つにとても繊細でダイナミックな意識があることがわかります。

私は元々、こういう技術を倣ってはいませんが先祖はノミを用いて石工にも関わっている一族でしたし石の研究はずっとしていましたから石の声を聴いて石と対話するのは得意な方です。

自然石を積み上げていく仕組みは、石を見ながらやっていくのですがまるで生き物のように周囲に顕れてくる英彦山の石をどのように組み合わせるかはなかなか至難の技です。それを先人たちの智慧や組まれた様子をよく観察して組みあげていきます。

組んでいくのは、しっくりと来るまで何度もやるのですが問題はその石の重さです。合気道を倣って石を運ぶことが少しは楽になりましたが、それでもとても一人二人で運べる重さではありません。現代の道具も活用しながら取り組みますが、落としたり転がったら大怪我をします。

自然と対話しながら取り組むというのは、自然の智慧を習得しながら取り組むということです。特に英彦山の石組の先人たちは偉大で、尊敬の念しか湧きません。

現在、薬草園を創っていますがその周辺の石垣の修復も進めています。人数を集めて、みんなで少しながら調えていきます。

むかしの人たちは多くの人たちが気持ちを合わせて協力しあって自然のなかで大きなことを成し遂げていきました。蟻のように小さな存在でも、協力しあえば大きな存在と同じ力を発揮します。

協力や、心を合わせること、また偉大な力を発揮することはロストテクノロジーになっては残念なことです。経済効果を優先して、効率や簡単便利に何か石油や電気などの動力を使うことばかりに進化してきましたがそれでは自然の中では人間本来の力を発揮することはできないのではないかと私は思います。

先人に倣い、先人の智慧を学び、子孫へ人間らしさや人間の徳性、人間の潜在能力なども伝承していきたいと思います。

石から引き続き甦生を学び直します。

改善

人生というのは改善の連続で今があるともいえます。この改善というのは、悪いものを良いものにするという意味と善いものをさらに善いものにするという意味があるように私は思います。

もちろん悪いものを善いものへ改善するというのは大切です。しかしその事実をよく観察していると悪いことがわかったて善いものにするのだから善いものがさらに善いものになったという捉え方ができることがわかります。

この物事の捉え方というのは、前提に感謝があるかどうかが関係があるように私には感じられるのです。

今の自分があるのが何の御蔭様であるのか、そしてどのような積み重ねがあって今に至ったのかをよくよく内省するとその今のすべては何らかの御蔭様のお導きであることに気づきます。

努力し、積み重ねてきた歴史や過去があって今が開きます。これは自分という存在も同様です。先人たちやご先祖様があって今の自分が存在します。今の自分に与えられた全て、例えば身体も心も特性も丸ごとかつての積み重ねがあったことで成り立ちます。

それをどう捉えているかで、改善への心得や心構えが変わってくるように思うのです。

改善は別の言い方では、恩返しとも言えます。たくさんの御恩をいただいたからこそ、御恩返しをしていきたいと思うほどに改善は進みます。そうやって先祖代々、子々孫々に改善されていくのです。

今よりももっと善いものになるのは、御恩に対して徳に報いようとする実践が続いているからでしょう。子どもたちの志事をするからこそ、常に改善に感謝しながら取り組んでいきたいと思います。