空白の解明

昨日は、スリランカの伝統医療の先生の実践とお話をお伺いすることができました。この先生は、ビジネスで医療をするのではなく全て布施により治療をされておられます。日本のむかしもお医者さんというのは、お金を取っておらず藪の中に住み無料で困っている人を助けていたといいます。年末年始に治療を受けて健康になった方が御礼にお布施したということが文献にありました。スリランカでは、今では日本では存在しないようなかつての仕組みで医療を実践するお医者さんがいるというのに感動しました。

佇まいは穏やかで聖者のようで、真心を籠めてご家族で私たちを歓迎してくれて色々と伝統医療や薬の作り方からその取り組みの姿勢、伝来の秘術まで惜しげもなく見せてくださいました。

この伝統医療のお医者さんは12代目に入り、先祖から伝来する書物や道具を受け継ぎ今も同じように薬を調合し診察し治療を続けています。まだ34歳という若さでしたが、仙人のような喋りと祈り方で深い安心がありました。

まずダナワンタリという医神に祈り、薬をつくる場所を清め調え、真言を唱え、方位を定め、すべての五大要素の力が入るように丁寧に道具を置いて牛乳や油を入れた銅の壺に薬を調合していきます。火はシナモンの木のみを用いて最初に30分ほど強火を入れたらあとは弱火で7日間かきまぜて薬草のオイルを生成していきます。すべての精霊が壊れないように手作りで丹誠を籠めてつくります。この様子を見ているだけで、この薬がいのちの甦生に大きな効果を発揮するのは容易に想像できます。

現代の西洋医療は成分のみを科学的に分析して、毒を持って即効性があるものを中心に処方します。しかしこの伝統医療は、根源治癒であり自己免疫のバランスを調えなながら病気そのものを中和して根源的なものからじっくりと治癒していきます。

一つ一つの薬草を採る時にも、丁寧にお辞儀をしてお祈りをして分けていただくように関わる姿に私たちは病気に対しても傲慢になっているのではないかと感じる機会になりました。

私たちの身体はどうやってできているのか、そこにはお水や土や植物や火などあらゆる元素が組み合わさって形成しています。その形成しているものの絶妙なバランスによって身体も維持しています。健康であるというのは、それだけ調和が保たれているということですがそこに対する感謝や謙虚さというのは忘れているのではないかと思います。

病気に対しても、その病気が発生した元を辿れば分けていただいているものへの感謝があるはずです。AIなどでもしもこの肉体がいらなくなったとして、私たちはこの肉体を捨てていくでしょうか。私たちの肉体は多くの元素が自然に絶妙に調和し、様々ないのちを吸収し記憶をもって生きています。細胞にも個性があり、心身も唯一無二です。

最後に薬膳料理をはじめ伝統的な揚げ菓子、そして仏陀が悟りをえるときにスジャータから供養していただいたというミルクライスをいただきました。スリランカに今でも息づいている宇宙創生の神話からの霊薬アムリタ、仏陀が悟る前に施していた様々な伝統医療、そしてその初心、とても深い學びをいただきました。

この學びを子どもたちに伝道伝承していけるように帰国後は実践によって恩返しをしていきたいと思います。ずっと探し求めていた仏陀の道、そして医食同源の道、真心の道、暮らしの道、すべてがスリランカのこの10日の滞在で結ばれて空白が解明しました。

仏陀に見守られた西遊記のような旅でしたが、真理は持ち帰ってからが本当の旅です。これからの新たな巡礼を英彦山から新たに復古甦生していきたいと思います。

ご縁を結んでくださった方々、偉大な見守りに心から感謝しています。

徳壺

アーユルヴェーダを体験する機会のなかで色々と新たな発見がありました。もともとこの古代医療の技術は、宇宙創生の歴史と深い関係があることもわかります。地球がどのように生成してきたか、そしてそのあとの生物たちがどのように誕生したか、そういう元素や根元から見つめてきたものです。

長い歳月をかけて、それぞれの場所と人の間で伝承されてきたのが伝統医療です。それを結集して一つの形式に纏めたものがこの古代医療の集大成、アーユルヴェーダということでしょう。アーユルヴェーダはサンスクリット語で生命と学問という言葉の組み合わせでできたといわれますが実際の翻訳と、現地で感じる意味が異なっていました。つまり古代医療は、長寿と天命、健康と徳積によって幸福が得られるというこの世のいのちそのものの存在の根源に結ばれているように私は感じました。

もともとスリランカの挨拶も長寿を祈るものです。長寿とは、単なる長生きのことではなく天寿を全うするということです。天寿を全うするために私たちはどうあることが最も智慧であるか。そこに徳を積むことが重要になってくるのです。豊かさや仕合せ、そしていのちの喜びは人間らしさや人間性の根源に基づくものです。

アーユルヴェーダでは、いのちの正体、それを元素といいます。つまり今、この世に物質化されているものは何で構成されているのか。それをよりよく深く観察すると、元素が分かれるところからはじまります。その元素を5つにわけたのが、五大元素といいます。「地」「水」「火」「風」「空」です。中国では五行というものが出て、「木」「火」「土」「金」「水」となっています。最近では、このほかにも意識やエーテルというものもあるといわれます。どちらにしても、人間が誰でも認識できる要素、元素がこの5つからとしたのでしょう。

その元素のバランスを観て、それを調えることを医療としました。そしてアーユルヴェーダでは、この五大元素を調えるために法螺貝を使うことも知りました。医学、薬学の神「ダンヴァンタリ(Dhanvantari)は、4本のての一つに法螺貝を持ちます。宇宙創世の歴史のはじまりから法螺貝を医療に用いるのです。

このダンヴァンタリは創始神話の人物です。世界が荒廃して滅亡するとき、すべてのいのちの神々も精霊も悪魔もみんなが一つに協力し合って不死の霊薬(アムリタ)を生み出し救ったという話です。その最後に生まれ出たのがダンヴァンタリでありこの霊薬が入った壺です。

日本では馴染深い存在に薬師如来がいますが、これもダンヴァンタリが伝来したものといわれます。チベットなどでもとても重要な神様となっています。この神様の持つ壺の中が不死の霊薬アムリタですが、霊薬アムリタは、日本では甘露、あるいは醍醐とも訳します。仏教ではこの涅槃、悟りをアムリタ(甘露・醍醐)ともいいます。大般涅槃経巻第14には、「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。」とあります。修行し中道を悟り不死を得るということでしょう。

この永遠ともいえる不死を私は経験から徳と現代では訳します。つまり薬壺は、徳壺なのです。徳が循環するというのは、いのちが輪廻するともいえます。

今回のスリランカ訪問で色々な氣づきをいただきました。ルーツはこの場所にしっかりと宿り、今でも我々現代人に何が最も大切な悟りであるか、そしてどう実践することが古代からの伝承なのかを直観できます。

今回の遊行の旅が、これからの子孫たちの真の幸福につながっていくようにこれから歩いていく道のりの中で一つ一つカタチにしていきたいと思います。

ありがとうございます。

原初の智慧

アーユルヴェーダの博物館で学び、ここ数日は伝統医療の経験をしています。そもそも伝統医療は先人の智慧の結晶です。また地域地域にはそれぞれの地域で遺ってきた治療法があります。その土地でしかとることができない薬草や、場の力、そして経年の創意工夫と実験を繰り返すことにより得られた検証の成果があります。

例えば、ある地域には目に特化した治療法を伝承する場所があります。日本でも目薬の木があったり、ある岩窟の水が眼の治療に効果があったり、その土地にしかない特殊な治療法をかつて経験したことがあります。伝統医療は、代々その土地の人たちに口伝あるいは、暮らしの中で伝承されてきています。医食同源などもその智慧の一つで、その土地にしかない食べ物や調理法なども同様に伝統医療の一つです。

また師弟関係で伝承している治療法もまた伝統医療の一つです。そこでは特殊な能力や不思議な感覚を持つ者同士で施術をすることでできる治療だったりもします。

アーユルヴェーダには、ダンヴァンタリという健康長寿の神様、つまり医神や医父として大切に祀られている存在があります。この神様はヴィシュヌ神の化身として知られ神々へとアムリタ(不老長寿の霊薬壺)を運ぶため、乳海撹拌(ヒンドゥー教の天地創造神話)の際に誕生したと信じられています。

ダンヴァンタリの姿は4本の手があり、その手には霊薬「アムリタ」の壺、また医術が書かれた経典、法螺貝、刃のついた円盤、そしてヒルを持っています。これは治療に使う大切なものだといいます。霊薬は、薬草、経典はマントラ、ヒルも治療用ヒルで毒を吸い出します。 刃のついた円盤は外科手術の道具です。法螺貝は、波動です。ちょうど法螺貝を持ってきていたので治療の前に法螺貝を吹きましたがこの5000年以上続く伝統医療と法螺貝がとても深い関係があることを学び直しています。

スリランカに来てから、常に挨拶は長寿を祈る言葉を話します。長寿で健康であることこそ、真に豊かであることだと感じる場所です。よく考えてみると、暮らしフルネスの実践も全てはこの健康長寿に感するものばかりです。日本では、貝原益軒が養生訓においてその真の豊かさの価値を語ります。そして徳を積むこともまた、この健康長寿と真の豊かさを磨いていくためです。

古代の最先端の医療技術がこのアーユルヴェーダです。そもそも古代技術は古くて不便な技術と思っている人もいますが実際には宇宙創生のころからの奇跡のテクノロジーです。人体というものが出来上がる過程で創生されていますから原初の智慧が全て凝縮されているものです。

これを丁寧に伝承し続けて5000年以上前から続いていることに尊敬の念が湧いてきます。私は英彦山とご縁があってから、様々な伝統医療、本草學に興味が出て深めていますがそのルーツはこのアーユルヴェーダではないかと感じます。

今回の体験からその原初の知恵を氣づき直していきたいと思います。

政教の問題

国家と宗教というものはむかしからかなり密接な関係を持っているものです。そもそも権力や権威というものは、何が正しいか、そしてどれだけそれが真実かということが人が人を信用する柱となります。人はどちらが正しいかで常に力を折衝していく存在です。

歴史を辿れば、政権が変わるたびに国家が主とする宗教も変わっていきます。現代においても、世界は大きな宗教が分かれせめぎ合いをしています。ここスリランカでも、国民の70パーセントを超えるシンハラ人の仏教がありそれ以外の宗教と様々な問題が発生しています。内乱を終えてもなお、新たな国家と宗教の在り方は微妙なバランスで問題を引き起こし続けます。

そもそも古代においては、神と政治とは分かれていませんでした。大和の国をはじめ世界の国々では王と神は一致していましたし、巫女などその関係を結ぶ存在でした。しかしそれが政教分離という権力と権威などが競うようになり、宗教と政治がぶつかり合うようになります。さらには、そもそも人が神のような力を持つような錯覚や洗脳もうまれ、それがテロや内戦を引き起こしています。

国家というものが、差別や不満を生み出すようになることで人々をどう管理するか、統制するかということをその時代時代の権力者たちが知恵を絞って今のかたちになっています。しかし矛盾をはらんだその統治方法は、時間が経てば崩壊しまた同じことの繰り返しです。

以前、カンボジアに訪問した際も政権が変わるたびに宗教が変わるため石像が壊され、時には改造されて歪な石像ばかりになっていたのが思い出されます。結局、何を信じる人々かという自分たちを正当化するために国家が宗教を利用します。そして宗教もまた、自分たちの存在を正当化するために国家を利用します。

政教一致も政教分離も、その実際は自己正当化の手段に過ぎないということでしょう。すぐに人間は、二つに分けては無理やり正当化しあい競争しますがもっと偉大な存在、例えば自然や宇宙といった分けることができないものを信じることで原点を学び直すことが必要ではないかと思います。

この先、分裂したものを無理に一つにしようとするよりも本来はどうであったかと原初の記憶を思い出し、みんなでよく考えて覚悟を決めることのように思います。結局、人間がいなくなったあとにこの地球はどうなっているのか。よく考えて、人間らしさとは何か、人間性とは何か、子どもたちの未来のためにも向き合っていくチャンスだと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。

自然との関係

私たち人類のむかしは、土地の所有というものに対してとても緩やかでした。森や海など自然のものと共生し、みんなで共有しているものという意識がありました。それが次第に個人の所有物となり、自然環境のバランスも崩れていきました。神社の杜もまた、神社が固有に持つようになり自分たちで守ることになりました。広大な杜を個人で守れるわけはなく、しかし所有権の問題で手を出せたり出せなかったりして結局は杜は荒れるか、あるいは共生循環するかつての杜ではなくなります。

本来、人間が自然に寄り添い生きてきた時代は自然を所有するという概念ではなく自然に活かしていただいているという概念で暮らしが成立していました。自然が主体で、私たちはその主体を信じて見守りその恩恵で生活ができていました。数千年、あるいは数万年そうやって生きてきました。その暮らしを守ってきたのが、今でも遺る先住民族や少数民族の方々です。

昨日、スリランカの先住民族ですべての部族のリーダーであるワンニヤレットの長老とお会いしお話をお聴きするご縁をいただきました。風貌は穏やかで徳が薫り、自然を見つめる眼差しで真理のみを語られる大樹のような存在です。以前、アイヌの長老にもお会いしたことがありましたが身体から滲みでる存在感はほとんど同一でした。

世界中の先住民族、特に狩猟民族は迫害の歴史があります。アイヌの時も同様に感じたのですが、政府から居住地域を奪われ、それまでの伝統的な生活も失い、誇りも自信も喪失し差別を受けるというはどこも同じです。まるで世界は統一の迫害マニュアルでもあるかのように、世界中のあちこちで先住民族は滅んでいきます。

これだけ時代はグローバルとかダイバーシティ、民主主義で個々の自由を勝ち取ったと謳っていますが実際にはそれは一部の多数派の社会のなかで都合のよいところだけでを切り取って語っているだけです。実際には、少数派や政府にとって都合の悪いものは無視するどころか自分たちの正義の邪魔になるからと排除の対象になっていて尊重されるどころかいつまでも差別の対象になっています。

少し考えてみたら誰にでもわかりますが、食べていくため、生きていく上での環境を失ったらどんな生物でも生きていくことはできません。保護するという言葉は、おかしな言葉で実際には自由を奪って飼育するという意味です。飼育されたくないなら餓死すればいいという具合です。人間というのは自分たちの便利な暮らしのために野生の動物や生き物にも配慮がなくなり傲慢になりますが、同じ人間同士でさえそうなるのです。日本でも森が失われて食べていけなくなった動物たちが山を降りてきて問題になっていますが、そもそも森で生活できないようにしているのは人間が先だということに氣づき直す必要を感じます。しかしそう思っても、実際には行政が決めたから仕方がないと諦めては自分たちの利益を優先してしまいます。

この問題は、地球全体、人類で最も重要な課題でまさに文明末期症状の特徴の一つでもあります。今の配慮と尊重なき一方的な浸食を続けるだけでは、結局は人類も滅びの道にまっしぐらに進んでいくのがわかります。

自然と敵対して征服する生き方か、あるいは自然と共生して寄り添い尊重していく生き方か、覚悟と決心が問われます。人間が差別し続け戦争が失われない理由も、そして子どもたちが精神を含めて病気がこれだけ増える理由もまさに今こそ、この問題をどうあるかを全人類で考える時に来ているように私は思います。子どもたちのことを真に思えば、今手を入れないと取り返しがつかなくなります。

しかし実際には、数の論理で運動論のみで何かをしようとするのは歴史に学んだことにはなりません。それぞれが自分の居る場所でどうするのか、どうあるかを考えて真摯に実践するしかありません。私は場道家であり、暮らしフルネスを実践するものです。

今日もマヒヤンガナの森のなかで、伝統的な暮らしや生き方を学び直してきます。ここでの氣づきを形にして相互に自立しあえる発見をしてみたいと思います。

 

セレンディピティ

「セレンディピティ」という造語があります。これはスリランカの3人の王子の物語から創造された言葉です。この物語は、イギリスの政治家で小説家でもあったホレス・ウォルポールが制作したものです。もともとアラビア語でスリランカのことをセレンディップと呼ばれていました。

この物語はかなりかいつまんで話すと、スリランカの王が幼い頃から知識を習得した3人の息子に跡継ぎの経験を積ませるために旅に出させます。その3人がペルシャに行くときに、ラクダ泥棒の嫌疑で拘束され死刑宣告を受けます。その理由は、足跡から正確にラクダの情報をすべて言い当てたのできっと泥棒だと思い込まれ訴えられたからです。しかし、皇帝が真偽を確かめるためになぜ足跡からそこまで分かったのかを聴くと、見事に洞察した内容を返答し、感動して褒美とその国で力を貸してほしいとまで頼まれたという話です。

ここから西洋的には、「思いがけない幸運」と訳されたり、あるいは「偶然または聡明さによって、予期しない幸運に出会う能力」といわれたりもします。日本では近いことわざに、人間万事塞翁が馬や棚から牡丹餅などがあります。

どちらにしても偶然に想像すらしなかった出来事によって、何かさらに善い事になっていくという意味でしょう。セレンディピティとは、そういうときに使われる言葉となりました。

色々と発祥の地はスリランカではなかったとか、諸説ありますがどちらにしてもよくよく観察するとそれは実は善いことだったというのは往々にしてよくあることです。

しかし人間、うまくいかないときや失敗続き、あるいは後悔するような出来事の時はとてもそれを善い方へと考えることができないものです。

日本では、禍転じて福になるということわざもあります。

信じる力というのは、経験としてはとても大切な徳目であろうと思います。私も色々とこちらで起きていますが、セレンディピティとして過ごしていきたいと思います。

暮らしの修行

スリランカでは巨石の磐座で暮らしている僧侶にお会いしたり、庶民的な家を見学したり会食をしたりとこちらの文化に馴染む一日になりました。ただ、日本との気温差で汗が滝のように流れ、また辛い食べ物も相まってなかなか体がついてきません。日差しが強く、湿気も強く南国のような気配です。島は自然が多く、鳥たちをはじめ動物たちや虫たちの楽園です。

人間の気質も島国特有の楽観的でゆったりとし、穏やかで親しみやすくみんな笑顔が多くて気さくです。写真撮影が大好きなようで、とにかく一緒に写真を撮ってきます。ほとんどの人たちが携帯を持っていてそれを使いこなしています。

一昔前といっても、携帯が普及するこの20年弱である意味世界は一変しました。世界中のあらゆる情報を取得でき、それがそれぞれの場所で影響を与えました。似たようなお店や商品、娯楽施設などもあっという間に世界に広がり、食品を含め仕事も変わっていきました。

今回のスリランカでも、当然パソコンも携帯もあらゆる場所で電波が調っていて入ります。むしろ日本の方が伝播のないところがまだたくさんあるくらいです。翻訳も便利なアプリがあり、何かあればそれで伝えます。とにかく、便利さというものが世界を変えてきたということでしょう。

人間の特徴として、便利なものは大好きで新しいものという認識があります。便利なものを手にすると、人はそれを手放せません。これはパソコンだけでなく車などの移動手段、また買い物や宅配など、どんどん便利さは新しさと共に発展していきます。

しかし便利さは完全無敵ですべてを賄えることはできません。その便利さが苦手なものとして伝統的な暮らしというものがあります。これは、自己修養であったり、自分の身体感覚を磨いて心を調たりすることもですが代替えすることはできません。便利な道具が増えても、それで悟ことはできないのです。AIが悟ってもそれは自分の悟りではないことはすぐにわかるでしょう。

日本の曹洞宗の開祖、道元禅師が宋で出会った老典座との会話の中で発見した真理に「偏界曾て蔵さず」(へんかいかつてかくさず)があります。これは私の意訳ですがこの世はかくすことなく全てそものが現れている、暮らしそのすべて一切が丸ごとの修行であると。

これは私の暮らしフルネスの実践の中心にあるものと同じです。

スリランカでも、私が感じるのはこの便利さということと知識や何か特別な修行をすることがいいことのように広がっている教えというものの矛盾です。真の教えとは、そんなに特別なものではなく伝統的な暮らしを観たらその中で全て含まれていることを感じます。

修行そのものが目的になってしまったり、悟ることそのものを目標にすると本末転倒するというのはどの時代も同じなのかもしれません。便利になることは新しくなり世界が変わると思っても、その変わった世界は本来の人間としての修行とは関係がない別の物ということでしょう。

色々と自分の刷り込みを疑い、今日も色々と確認してみたいと思います。

失われたものから学び直す

無事にスリランカに着いて今日から移動を開始します。日本ではストーブをつけ朝から雪が降っていましたがこちらは熱帯でクーラーをつけています。早速、蚊が襲ってきて寝不足気味です。コロンボという都市に泊まっていますが、それでも早朝からニワトリが鳴いている声で目が覚めました。猫も犬もいて、小鳥も多く自然がいっぱいです。

スリランカの人々の特徴は、一般的には家族を大切にし、人とコミュニケーションをとるのがすき、時間に少しルーズで平和的だと言われます。日本の離島のような雰囲気もあり、また僧侶が尊敬されていてみんなで大切に接したり、よくお祈りをしたりとむかしの懐かしい日本の雰囲気があります。

今回は、一昨年よりご縁ができて関係が深まった方がご案内してくれます。色々と丁寧で親切、薬草をはじめ巡礼や伝統的な暮らしなど日本で取り組んでいる暮らしフルネスや遊行、また子ども第一義の理念の学びも深まる予感がします。

すでに日本では失われてしまった文化を学び直すことは、自分たちが本来どのような民族で何をしてきたか、その初心に帰ることでもあります。

また私は徳積財団を運営し、徳が循環する経世済民の世直し行に取り組んでいますがスリランカの仏教の形態や功徳を重ねる仕組みにとても共感があります。日本では、ほとんどが職業と宗教が一体になっていて出家といっても、布施や乞食だけで生きている人はほとんどいません。

しかし本来、古来からの仏陀の仕組みは布施と乞食により徳を積む実践を通して人々に因果律をはじめ輪廻転生などを伝承してきたものだったはずです。

自分の中にある常識を疑い、今一度、何が布施経済の根幹なのか、何が徳積経済の本質なのかをこの場所から見極めていきたいと思います。

真心の犬

昨日は、家族で一緒に犬のお墓をつくりみんなで天国へ送り出しました。ちょうど正月明けでみんなが集まっていてもっとも善いタイミングを選んでくれたようでした。もともと賢い犬で、家族の方が鈍くいつも気が付くのが早いのでよく吠えては知らせてくれました。

なかなか通じないからとよく怒って吠えていたのが今でも印象的です。思い出はたくさんありますが、特に印象深いのが失踪した事件です。鎖でつないでいても、それを切って出て行ったり、首輪をつけていても無理に取りはらっていったりと滅多にないのですがその時に失踪します。

急いで追いかけるのですが、追いつかずいつも散歩をしているのにその時だけは走って逃げていきます。散歩の量が物足りなかったのか、でも確かな意思でどこかにいこうとします。

今回の最期も、数日前から吠え続けて何かを知らせているようでまた何処かにいこうと強い力で鎖や網などを乗り越えていこうとし続けていました。チャンスの時は逃さない、そういうタイミングをよく観て判断するタイプだったように思います。

このタイミングというのは真心と密接に繋がっています。我がないほどに真心は発動します。そう考えてみると、うちのサスケは真心の犬でした。

たくさんの思い出や仕合せ、記憶はいつまでも心に一緒にいきています。

また来世あるいは、今世で生まれ変わって魂の再会をする日を心から楽しみにしています。ご冥福を心からお祈りします。

ありがとうございました。