魂と祈り

私の周りには志をもっている職人さんたちがたくさんいます。茅葺職人さんをはじめ、畳職人さん、また自然酒の職人さんなどです。他にもたくさんおられますが、共通するものは素材の方を大切にしているということです。

茅葺職人さんでいえば、萱を育て萱場を守ります。畳職人さんはイグサ場を守ります。自然酒の職人は、自然農法の田んぼを守ります。みんな素材があってこその職人さんで、素材の大切さを深く理解しておられます。

同様に私は、在来種の高菜の畑と種を守ります。素材というものは、唯一無二で素材を守るためにその素材を加工して世の中に活用していくという具合です。かつて、私たちは自然の恩恵に深く感謝してその恩恵を守り続けてきました。そこには、素材の持っている徳だけではなく、その素材に対する尊敬や感謝、祈りなどの生き方がありました。生き方とは、その生きる姿勢であり、自然や素材に対してどれだけ純粋に崇高な魂で接していくかということです。

見た目だけを誤魔化したり、舌先三寸をだましたり、耳障りのよい言葉を並べて嘯いていたりと、現代はほとんどの人たちが赤信号みんなで渡ればこわくないと、不正直なこと、不誠実なこととわかっていても見て見ぬふりをして魂の純度を濁していきます。

そもそも環境がよくなく、純度を濁すような世界にいたらそれもあるでしょう。しかし、同じ環境にあっても守られる人たちがいます。それが先ほどの職人さんたちです。その理由は、魂の祈りを続けるからです。

自然の前に立つと、私たちは自然に魂が祈り始めます。なにものか分からなくても、かたじけないと感謝が湧きます。そこには畏敬があります。畏敬は、神秘性でもあり、それを昔の人たちは神とよび何かをそこに感じました。

神が宿るところには、魂の祈りの場があります。

それぞれには、それぞれの神秘性があり、私はそれを祈り続けます。そしてその場には、素材が誕生しいのちが輝くのでしょう。

子どもたちのためにも、魂と祈りの伝承を実践していきたいと思います。

私たちはかつて循環型の暮らしを磨き上げていました。伝統文化に触れれば触れるほどにそれを感じるものです。例えば、藁という素材。これは稲作と一緒に循環するものですが、数々の藁細工をはじめ暮らしの道具がこの藁から誕生しました。むかしの稲作は、そのどれもが稲を大切にして稲に守られるような思いやりが循環しました。

これは稲に限らず、竹なども同様です。自然界にあるもの、身近な暮らしにあるものはどれも大切にされ暮らしの中で用いられました。まさに、自然の巡りと一緒一体になった心安まる暮らしがあったのでしょう。

現代は、ほとんどが使い捨てです。またかつての自然物を循環する暮らし自体が失われています。先ほどの藁であれば、稲架けをする農家も減ってきました。稲架けとは、収穫した稲わらを逆さにして吊るして登熟させる方法です。むかしは登熟させるのに乾燥機を使わずに天然の太陽と風で天日干しをしていました。今は機械で刈込み藁はそのまま田んぼへと返します。むかしは鎌で手刈りでしたからどの農家もみんな稲架けしていました。

そして脱穀した後の藁があらゆるものに使われるのです。ある時には、屋根に、ある時には長靴や草鞋に、そして神事や行事のしめ縄やゴザにあらゆるところに活かされました。そしてそれは自然に還り、見事なまでに土壌の肥料などにもなります。

お米は単に食べるためだけの「モノ」ではありませんでした。まさに共に循環型の暮らしをする最高最大のパートナーだったのです。そのパートナーを単なるモノのように接するようになってから、田んぼは力を失いました。

日本の田んぼは、本来は日本人の元氣の根源であり至高の場でした。

次世代のことを思うと、心が痛みます。国家や金融の奴隷になりひたすらに循環しない生活を追い続けた先に懐かしく美しい暮らしは遺っているのでしょうか。一度、やめてしまえば伝統や伝承はなかなか甦生しません。だからこそ遺っているうちに、ちゃんと継承し新たな美しい暮らしを育て上げ磨いて紡いでいくことが私たちの子どもたちにできる唯一のことではないかと私は思います。

まだ、やれることがある、遺っていることがあることに感謝して心して今一念、藁に向き合っていきたいと思います。

共生と安心

烏骨鶏がだいぶ育ってきて、声変わりもしてきました。最初はピヨピヨと可愛らしい鳴き声でしたが今ではコッココッコと大人の声です。私たち動物は、子どものころと大人になると声でも変わります。

身体も大きくなり、自立して移動範囲や生活範囲が広がっていきます。また体の持つ機能を上手に活かし、自然界をはじめそれぞれの社会生活の中で生きていく術と糧を得ていきます。

幼い頃は、親鳥がせっせと餌を運んででは大きくなるまで面倒をみます。この期間は、深い信頼関係を得る時間でもあります。

今回、よくなびいてくる烏骨鶏が一羽いて色々な機会に一緒に連れて外にいきました。言葉も意思もそんなにわかりませんが、安心して信頼しているのがよくわかります。人間も本来は、言葉や見た目、年齢、性別などがたとえ一緒でなくても深い信頼関係さえあればお互いに安心して共に過ごす仕合せを感じるものです。

今の烏骨鶏たちで4代目になりますが、長生きしているものには15年くらい生きているものがいます。オスの方が長生きで、メスをよく守ります。鶏の世界では、智慧としての秩序や序列があります。群れをよく守るものが周囲が認めるリーダーとなります。そして体調が弱いものや病気がちな鶏は敬遠され肩身が狭くなります。

自然界では厳しい環境で生き残るために、まずは自分のいのちを先に燃やすのを優先するということでしょう。しかし、人間が飼育するようになると自然界の厳しい環境が人間の助けによって柔和になっていきます。すると、人間と共生することの方の智慧が増えていきます。

人間がよく飼育する犬をはじめ、猫や鶏は人間によくなついています。また燕をはじめアシタカクモやヤモリやハエトリクモなども人間を恐れている感じではなく共生しているという感じさえします。トンボなども人間によく寄ってきます。人間が益があると思って共生してきた関係の中に、お互いの信頼関係や安心が継承されているのかもしれません。

共生という安心は、自然界を生きていくために私たちが得てきた最も大切ないのちの源泉です。人間に限らず、これは関係性の中にあるものです。例えば、植物や野菜ともこの共生や安心は結べます。

それは安心だという関係を結ぶまで、お互いが深く愛しあうことです。この愛し合う関係というのは、自然の恩寵であり宇宙の原点かもしれません。

そしてこの関係性の中に場があり徳があります。徳の場を磨いていきたいと思います。

優しい包丁

先日、代々刀剣を打つ鍛冶師の方から包丁を購入するご縁をいただきました。私の愛用の包丁は、玉鋼で打たれたものですが非常に滑らな切れ味で食材が美味しくなります。

以前、鍛冶師と出会う前はホームセンターなどの市販の包丁を使っていました。シャープナーなども合わせて購入して、切れなくなるとすぐに研いでいましたが長持ちせずにすぐに買い替えていました。

最初に包丁を換えようと決心したのは、松坂の研師とのご縁からです。研ぎの奥深さ、そして鍛冶師との関係、そして一生使う道具をお手入れしていくことの大切さを学びました。

玉鋼の包丁と出会ったのもそのあとです。日本刀を手入れするうちに、硬くて柔らかいしなやかな鉄のことを知り、鉄にのめり込んでいきました。もともと鉄瓶をはじめ、鉄はあらゆるところで日常的に触れていたので鉄を知るのにそんなに抵抗感もなく色々と深めていきました。

研ぎは、砥石を社員の祖父の伝来ものをいただきそれを用いて包丁を研いでいます。独特の砥石と鉄が交じり合う香りをかいでいると、心も静かに落ち着きます。

定期的に研ぎをしますが、綺麗に研ぎ澄まされた包丁は食材を大切に思いやっているのがわかるほどの切れ味です。

私は隕鉄で鍛造した日本刀を守り刀に持っていますが、以前手入れ中に誤って少し指先を切ったことがあります。その時は、熱いと感じるだけで痛みも一切なく、そしてすぐに傷口がふさがり治癒した体験があります。あの時、切る側だけではなく切られる側の気持ちも体験し、如何に切れ味のよいものには心が宿っているかを実感したのです。

包丁は、使捨てのものではなく最後の最後まで研いで使えます。自分の一代では使い切れないかもしれません。しかしそれをまた次の代が使っていきます。研ぎ切った小さな伝来物の包丁に触れたことがありましたが、まるで老木や長老のような優しい雰囲気で最期まで使われるもののいのちの尊さや美しさ、尊厳に大きな感動を覚えたことがあります。

私たちはすぐに物を買い、捨てます。しかし物ではなく、そこには使い手と用いて、そして道具との心の関りや繋がりが日々に産まれます。そういうものを大切にする心の中に、私たちは日々の心がけというものの生き方を学ぶように思います。

新たに出会った包丁ともこれから関係が増えますが、それぞれの古民家でおもてなしをするときの一つの個性になるように思います。出会いに感謝しています。

徳のある暮らし

暮らしというのは、いつもプロセスの中に喜びや仕合せがあるものです。スピード社会でプロセスを省いて結果さえ出せばいいことだからと結果ばかりをみんなで評価していたら暮らしもそのうち失われていくものです。本来の結果とは一つ一つが重なって時間をかけて結果が出てきます。しかし、現代はプロセスを如何に取り除いて早く結果を出すかが求められます。それが至上の価値だとも思い込み、企業もこぞって競争して早くそれを実現しようと躍起になっています。その結果主義の最たるものが学校で人間の教育の仕方にまでになっているのはとても残念なことです。

子どもたちは本来、プロセスに喜びを感じるものです。遊びというものもプロセスが楽しいから遊びこむことができます。もちろん、目標もあったほうが楽しくなることはあります。しかしそれはプロセスの大切さやそれを深く味わうために用いるもので楽しみや喜びを増すものだからです。

私は暮らしフルネスの中で、丁寧な暮らしをしているとよく周囲に言われます。いちいち、そのものの意味や価値、その意義を味わいながら取り組むからそう見えるのでしょう。実際に手間暇というのは、めんどくさいと思われますがその逆で実は自分も喜び、周囲も喜ぶ、自他一体の幸福の循環を生み出すものです。これを私は徳の循環とも呼んでいます。徳が循環するような世の中になっていけば、誰もが気が付けば丁寧な暮らしになってしまい喜びや仕合せを深く味わえるようになります。それは誰にでも今からでもすぐにできることです。

今の時代の空気感は情報社会でもお金を使うところでも効率優先、結果主義の便利さこそが至上の価値になっています。これは一言でいえば、「心を使わずに脳みそだけで処理する世の中」がいいとなっているということです。

私が提案している暮らしフルネスは、この逆で敢えて心の方を先に使い、心の豊かさが循環し徳が積める生き方を実践していくことです。これは単に丁寧な暮らしのことをいうのではなく、真心を盡す暮らしのことをいいます。

例えばお漬物を合成添加物や保存料、着色料を使わないから丁寧な暮らしをしているというわけではありません。もちろん、私が取り組む日子鷹菜は、そんなものは入れませんが大切なのは真心を籠めて取り組むそのプロセスや結果が単に丁寧な暮らしのようになったということです。

丁寧な暮らしを目指しているのではなく、真心を使うことを忘れないということを大切にしているのです。

似て非なるものもたくさんあります、これは脳が心にとって換わっているからです。情報化社会の中では、心まで脳で心風に処理されるからです。大切なのは、知ることではなく行うこと、知行合一に真心をまず実践することです。脳を使わないというわけではありません、まずは順番として心を用い、脳はそれに付随して活かすという具合です。それを日々の暮らしのなかで日常的に実践していけば脳と心のバランスは保たれ本来の謙虚さや感謝のままの自分でいつもいられるということです。

先人たちはそれを「徳のある暮らし」と呼び、一生かけてその徳を磨いて恩に報いたように私は思います。むかしのものは懐かしいものには、その徳の智慧の伝承が詰まっています。先人たちの生き方に習い、この時代も次世代につながっていることを忘れずに徳を伝承していきたいと思います。

心のふるさと

家庭教育というものがあります。そもそもこの家庭教育はいつからはじまったかといえば、人類が始まった時からとも言えます。その時から代々、その家の家風や文化が産まれていきました。それは色々な体験や経験を通して、大切なことを親から子へと伝承していくのです。

つまりは家庭教育の本質は、伝承教育ということでしょう。

その伝承は暮らしの中で行われてきました。これを徳育ともいいます。私たちは徳を暮らしから学び、その徳が伝承していくことで代々の家は守られ持続してきました。私たちが生きていく上で、これは生き残れると思えるもの、自然界の中で許された生きるための仕組みを智慧として取り込んできたのです。

これは人間だけに限ったものではありません。鶏がもつ秩序であったり、虫たちがもつ本能であったりと、見た目は違ってみえてもそれぞれに家庭教育がありその一つの顕現した姿としての今の生きざまがあるのです。

人類は、その家庭教育をそれぞれの小さな単位の家からその周囲の家にまで広げていきました。親子で伝承してきたものを、その地域で伝承していくようになりました。善いものの智慧は、善いものとしてみんなで分かち合ったのです。助け合いの仕組みもまた地域の伝承の一つです。地域ぐるみでみんなで伝承してきたからこそ、その地域が豊かに発展し、存続してきたともいえます。

それが現代は破壊されてきています。地域の共同体も歪んだ個人主義により失われ、家庭教育も核家族化などによって環境が劣化していきました。今だけ金だけ自分だけという空気を吸い、家庭教育は学校任せです。こうなってくると、人類は今まで生き残ってきた力を失っていくことになります。

つまり生きる力の喪失です。生きる力が失われることは、私たちは心のふるさとを失うことでもあります。心のふるさとは、この代々の伝承のことでありそこをいつまでも持っているから故郷の心も守られます。

次世代のことを思うと、今の環境を変革すべきだと危機感を感じます。そしてそれは何処からかといえば、家庭教育の甦生からというのは間違いありません。家庭教育を国家などに任せず、それぞれが暮らしを丁寧に紡ぎ、地域の方々と一緒にかつての先人たちや両親、祖父母からいただいたものをみんなで分け合い守り続ける活動をしていくことだと私は思います。

私が故郷で行っているすべての事業もまた、その心のふるさとを甦生することに関係しています。保育という仕事に関わってきたからこそ、到達した境地です。

子どもたちのためにも、保育の先生方を支えるためにも信念をもって家庭教育を遣りきっていきたいと思います。

休みを味わう

人は休みが必要な時があります。なぜなら休むことは、止まることになるからです。以前、骨折した時に何もできなくなり色々と苦労したことがあります。それまでのハードな日常が全て途絶え、食欲もなくなり気力も失いました。そうなると、うつ状態のようになり不安や心配事が波のようにやってきます。真面目であればあるほどに、何とかしなければとバタバタするほどに余計に休むことができません。

思い切って、諦めて休もうと決心すると周囲がよく動いているのが観察できるようになってきます。自分が止まるからこそ、周りがよく観えるのです。今の時代はスピード社会で何でも一日でやれることが増えています、車や飛行機であっという間に移動でき、お金を使えばすぐに御飯が出てきて携帯やパソコンで情報や連絡が瞬時にできます。こうなってくると、スピードは増していくばかりで便利の渦のなかで自分が動き続けている状態になります。

じっとするというのは、内側からの治癒を快復させていくことに似ています。動くときに使う気力と、じっとする時に使う気力は陰陽のバランスのように調和しています。動いているからこそ、止まる時間が必要になる。これは座禅などでも同じです。

また動くと疲れますが、疲れると硬くなってきます。必要以上に無理をしたり、緊張する時間が増えると緩む時間が減ってきます。緊張と緩和、自律神経やストレスというものは常にその止まることとのバランスを保つことで調っています。

また「止」というのは、古代中国の甲骨文字がルーツです。足を意味する偏旁(へんぼう)が加わり足で立ち止まるという意味です。字も足跡を表していて、歩くというのもこの止まるが合わさっています。

質の高い動きと休みは、「止まる」ことではじめて実現するように私は感じます。しかし止まることを學ぶというのは、なかなか難しいことです。車の運転も、速度を上げすぎたら周りの景色も見えませんし事故にあったらどうしようもありません。ブレーキをちゃんと踏め止まることを会得しているからこそ運転も楽しくなります。長旅するには、運転を安心してできるように休みを覚えることが必要不可欠ということなのでしょう。

休みはただじっとしているだけではなく、地に足が着いているという意味もあります。地に足をついてちゃんと一歩ずつ丁寧に進むことで私たちの心身は安定してきます。丁寧な暮らしをしながら休みを大切に味わっていきたいと思います。

 

当たり前を学び直す

昨日は見事な十五夜の美しいお月さまを拝見でき、仲間たちと徳積堂で徳積と暮らしフルネスの実践をするなかで心身がとても元氣になっています。今ではお月見の方が非日常になっていますが、本来はこのお月見こそ私たちの当たり前の日常の暮らしの中心に据えられていました。

いつからか私たちはかつての当たり前が、当たり前ではない非現実のものになっています。私は、かつての当たり前を忘れないように色々と現代の特定の環境に刷り込まれないようにと日々の暮らしを調えていますが、よく周囲の環境に染まっている人たちからは尖がっている人といわれたりします。別に尖がろうとしてやっていないのに尖がっているというのは、それだけ今は当たり前のことが当たり前ではなく見えるということです。他にもこだわりが強すぎると驚かれたりします。これは別にむかしの当たり前を自然にやっていたら周りからそう見えるだけということです。極端だと、縄文人を目にすれば現代人からは異常に見えたということでしょう。しかし別に縄文人の恰好をしてなく、物事の自然が分かる人なら違和感はそんなにないはずです。

そもそも何が自然で何が不自然かがわかるというのは、どの時代を生きることにおいてもとても大切な見識です。どの時代も今の時代が当たり前になっていることは、むかしから見るととても滑稽で異常に見えるからです。

例えば、保存食が添加物たっぷりの調理になっていることやサプリや薬ばかり飲んで身近な薬草など除草剤で枯らしていること。他には、お金を大量に使って心の満足を得ようとしていたり、季節の循環をまったく無視するような生活をすることで経済を動かすこと、水道やガスや石油などエネルギーの無駄遣いなど驚くほどに当たり前が変わっています。

どちらにしても不自然な生活を続けていたら、いつか必ず限界がきて崩壊します。それでも当たり前の環境がすぐに変わるわけではありませんから赤信号をみんなで渡れば怖くないと誰もが先延ばしをしてツケを子孫に残しています。

本来は、気づいたらすぐに自然に回帰できるように色々と改善をして子孫へのツケを今の世代で解消しようとするのですがそんなことをしていたら尖がっているやこだわりが強いといわれ変わり者として裁かれる始末です。実際にはそうではない人もいますが、世の中の大多数、特に既得権益を持っている人たちほどかつての当たり前は異常になっていた方が都合がいいのかもしれません。

昨夜、お月見をしていたら数千年、数万年前のことに思いを馳せました。その頃の人たちは何を感じていたのか、どれくらい澄み切った感性で物事を観ていたのか。日本刀の古刀に現代刀が叶わないように、その魂の純度は研ぎ澄まされた人たちの暮らしはどうなっていたのか。

私の関心はそこにあります。

先人たちはみんなで自然に対して謙虚に、正直に生きてきたからそれを暮らしに昇華させみんなで実践を怠らず子孫へ徳を積み続けてきました。先人たちが磨いてきた美しい暮らしは、子孫たちへそのまま譲り渡していけば私たちはツケを解消していけ同時に徳も譲っていけます。一人一人はたとえ小さくて弱い実践かもしれませんが、暮らしは誰にでも今からでもすぐに改善することができます。

お月さまが私たちを澄んだ光で見守ってくださっているうちに、私たちも懐かしくて美しい生き方に当たり前を学び直していきたいと思います。

月の陰徳

今日は、徳積堂の十五夜祭を開催します。もう取り組み始めて3年目になりますが、この行事は大変人気でいつも席が足りません。お月見と音楽の調和は美しく、懐かしい秋の風情に心が深く癒されます。

もともとこのお月見の行事は想像してみるときっと縄文時代よりもずっと前から人類は夜に月を眺めては月が実りを見守ってくれているのを感じて暮らしの中で自然に行事をしていたように思います。

特にこの秋の澄み切った空の月の光を浴びると、心の深いところまで照らされるように清らかな夜にいのちへの感謝や恵みへの恩徳を思ったのでしょう。

今日の室礼は、そのお月さまやご先祖様への感謝と供養を籠めてお月見団子やススキや、芋を使って行います。

まずお月見団子は、満月に見立てます。このお月見の団子は農作物の豊作をいのり感謝する意味があります。一般的に十五夜から因んで一寸五分の大きさにするといいと言われます。一寸五分とは、約4.5cmくらいです。また十五夜なので団子の数も15個がいいといいます。それに月の光を浴びせては力をいただき、みんなで食べて元氣やいのちをいただきます。

またススキは、本来は収穫した稲を飾っていましたが稲穂がなくなっているので実がついたススキを稲に見立てたといいます。ススキは魔除けの効果もあることから、農作物を災いから守るといわれます。月の光を浴びて透明にキラキラと輝き、風にたなびく姿は心を静かに安らかにします。

そして芋名月といって、サトイモやサツマイモなどを使ってお供えして直来でいただきます。これは稲作が始まる前の、田イモ、サトイモを食べていたころの風習の名残です。芋の美しい白さや形が月に見立てられ、またこの時期独独の旬の甘みや香りにはうっとりします。芋を使って、様々な調理をし、芋が主役になる味わいも格別です。

この徳積堂の十五夜祭は、もともと月を眺めるのに徳があると信じるところから開始したものです。私たちは夜に月を眺めて、月を祈り、月に感謝するとき、いのちの中にある深く厚い徳を感じるものです。ただ月が夜空にあるだけで仕合せ、ただ月が見守ってくださっているだけで喜びになる。

陰ながらいつも地球を、そして私たちを見守ってくださっている存在に気づくことのなかにこそ、陰徳があります。お月さまはまさに陰徳の象徴だと私は思います。

暮らしフルネスの豊かさを、今日も皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。

暮らしの音

聴福庵では懐かしい道具たちに囲まれた暮らしをしています。その懐かしい道具に囲まれる喜びの一つは暮らしの音です。例えば、建具を移動する音、料理をするときの和包丁の音、また炭火が燃えていくときの音、その他、風鈴や暖簾などが揺れる音が聴こえてきます。

この音は、むかしからある懐かしい音です。私たちは音を聴くとき、その音が持つ波動のようなものを感じ取っています。音には時代を超えたそのもののいのちの存在を感じることができます。

私は暮らしの音で最も好きなのは、備長炭の奏でる音です。私は炭オタクなのであらゆる炭を収集し、試行錯誤して最も音の善い炭ばかりに囲まれています。その炭が、静かに燃えるときに奏でるキンキンと啼く高音には火と水が調和するような穏やかな気持ちになります。合わせて、鉄瓶の水が沸騰しシャーシャーと沸き立つ音もまた安らかな気持ちになります。

日々の些細な暮らしの中で、どのような音を聴いているかで心の仕合せやゆとりも変わります。

暮らしの喜びというものは、この音との暮らしの中にあります。

現代では、特に都会はあらゆる人工的な機械音が聴こえてきます。それにスマホをイヤホンで聞いたり、また電磁波の音なども鳴っています。懐かしい音は、耳をかなり澄まさないと聴こえてきません。

日常的に心が穏やかで安らかになるような環境があることで、暮らしはとても豊かになります。

子どもたちや子孫のためにも、懐かしい音のある暮らしを伝承していきたいと思います。