自然には調和という言葉があります。調和しているのが自然であり、自然は調和している状態のことを言います。この調和とは何か、これは人間も自然の一部ですから調和していることで自分の存在が成り立ちます。改めて調和というものの大切さを深めてみようと思います。
そもそも自然というものは、それぞれの分を弁えて存在しています。二宮尊徳は「分度」と言いましたが、自分の分を弁えることでそれぞれの存在を活かし合います。
生き物たちは、食料を獲りすぎることはなく、度を超えてやりすぎることはありません。よく何らかの生き物だけが増えすぎることはありますが、それはその前に分を超えた何かを誰かが行ったことで調和が乱れるから発生するのです。
例えば、ある農園に害虫がいるからと農薬ですべての虫たちが死んでしまうとします。それまでみんなで分を守っていた生き物たちが死に、外から新しい生物は入ってきます。するとその生き物が急激に増えてしまいその農園はまた分を超えて調和を失います。そしてまた農園に農薬をまいてその虫を殺してしまえば今度はまた別の虫が外からやってくる。何も虫がいない状態になるまで農薬を使った頃にはそこの草花や木々にいたるまですべてが枯れ果てているということです。これが不調和と言います。
そもそも調和する状態とは何か、それは持ち味が活かし合っている状態のことです。持ち味が活かせないから不調和が発生し、そのこから不自然の悪循環に入ります。それぞれの生き物たちが分を弁えて、それぞれの場所で自分の分を守ることができるのなら自然は自ずから調和にハタラキます。
このようなハタラキを知る者たちは、余計なことをしなくなります。先ほどの農薬こそを仕事だと勘違いし業務ばかりを増やしては不調和をくりかえすのは、分を超えてしまっている自分に気づかないからです。言い換えるのなら、不自然であることにきづかなくなっているくらいに自分の能力にばかり頼っているのです。
本来、自然は周りを信頼し合って存在します。自分は自然から分かれている存在とは思っておらず、自分自身は自然の一部であることを自覚しています。つまりは自然と一体であるということです。
その自然から離れているから心が不安になり、余計なことを繰り返しているうちに分を超えて不調和を続けてしまうのです。それでは持ち味は出す暇もなく、ひたすらに忙しい日々の業務で忙殺されているうちに豊かさもまた消失してしまいます。
改めて自然から調和を学び直し、それぞれの人々が協働でチームになって仲良く働くことを実践していかなければならないと私は思います。自然の中で分を弁えることは周りと一体になって一緒に仲良く生きていくことです。この調和は、それぞれの持ち味の集積によって成り立っています。
引き続き、持ち味の本質を見極めつつ自然の法理を仕組みとして子ども達に伝承していきたいと思います。
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「自然」は「調和しようとしている」のではなく、自ずから「調和している」のです。一切のものが己にとらわれず、自然という本来の正しさに対して素直なので、余計なことをする必要もないのでしょう。この「出発点」を間違うと、意図的な調和になり、そこには妥協や我慢が発生してしまいます。「分」を考えて自己調整しようとするのも不自然です。「意図」のなかに混じり込む不自然さにまず気づくことが必要なのではないでしょうか。
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調和を乱すものの一つに、「不信」という自分の心があることをいつも感じています。「信じている」からこそ、自然の成り行きやご縁、他力の邪魔をしないようにと思う心が生まれますが、不信の時はとにかく自分の事ばかり考えてしまっていて、本当に
驚くほどに勝手に物事が進んでしまいます。この不甲斐なさを感じられないこと=「刷り込み」が最も恐怖です。その刷り込みも、存在を感じられたら安心です。乗り越えていく方向性が分かります。「志を立てる」や「理念から働く」や「一緒に働く」ことはその気づきの最高の環境のように感じます。社内で学んだこと、体験したことを家庭でも大切にしていきたいと思います。
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「持ち味」について、まだまだ今までの自分の価値観や言葉通りの感覚が強いように思いますが、そこに気づけただけでも近づいている、それを活かそうと皆で積んできた結果の表れだと感じます。今あらためて「内的生産性」の言葉が頭を過りますが、頭で先に理解できるような簡単なものではないからこそ、これからも試行錯誤しながら「持ち味」から働き合うことに挑戦していきたいと思います。
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一人前、仕事、持ち味など定義する意味を履き違えると、余計なことばかりをしてしまいます。他の所ではいいことも目指しているものが異なれば、同じようにはなりません。仕事した気にならず、周りが喜ぶような行動を一つでも行っていきたいと思います。