古民家再生を手がけていく上でいつも感じるのが先人たちの暮らしを感じることです。現在は文字を使って文章で物事を伝えようとしますが、先祖たちはそのほとんどを文字ではなくそのものと対話をして伝承し続けてきました。
例えば、古民家であれば家の柱と対話し先人がどのように組んだのかをその意味を感じ取りメッセージを感受しました。他にも生活の道具一つであっても、大切に使われてきた道具が何に使用されたのか、どのように物と接してきたかのメッセージも感受しました。
この感受したというのは、その物との対話をして直感していくものです。現代は、そのものとの対話をしないですぐに理解しようとします。説明書やマニュアル、文章がなければ使い方が分からないとしすぐに投げ出してしまいます。これは生き方の変化であり、そのものと対話をして感受感得し深めるということなしに簡単便利に誰でもわかるようなものが人気があります。勉強をするのもさせるのも速効性があり、すぐに誰でも平均化できるものがよく売れています。
しかし本来、その物の由来はかつての先人や先祖の恩徳そのものでありその方々がどんな真心や思いでそれを遺し歴史を紡いできたかというものを伝承するのが子孫の勤めでもあります。
それは決して簡単便利に平均化されたものを単に使えばいいのではなく、そのものの真価に触れて今の時代ならその真価をどのように再定義して活かそうかと温故知新することが今を生きる私たちの本来の使命だろうと私は思います。
そうやって伝承されていくのが文化であり、文化のない単なる文明の利便性だけを追求するのなら歴史と対話することがなくなってしまいます。なぜ歴史が必要かということが分からないで今を生きているというのは誠に滑稽な話です。この歴史というのは、そもそも先祖と対話をするために遺すのです。私たちは歴史に触れることで今を感得し、今の自分があることの意味を知ります。知識だけが膨大に増えて何でも分かった気になり知ったかぶってみても、その本質を感受感得していないのはスキルだけが上塗りされる中身のない薄っぺらなものです。
歴史を学び直すのは、歴史と対話していくことです。そして歴史と対話することは、先祖になることです。
先祖の暮らし方に触れ、先祖たちは子ども達を深く愛している真心や愛情を感じない日はありません。先祖たちが子ども達のためにと実践してくださったこと、里山然り、古民家然り、自然に逆らず福を惜しみ少しでも子孫へ渡せるようにと気遣ってくださった姿に恩徳を感じます。
子ども達である私たちが歴史と対話し感受感得するものは先祖たちの恩徳であるべきでしょう。
私も先祖の一人として、先祖として子ども達に生き方を譲り恥ずかしくないような暮らしを実践していきたいと思います。子ども第一義は、実践躬行にこそありますから引き続き家から生き方を立て直していきたいと思います。
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小さい頃「ひいおじいちゃんってどんな人?」と母に尋ねたことがあります。写真でしか見たことがなくても母から聞くその人柄に安心感を覚えたのは、自分という存在の有り難さを子どもながらに感じたからのように思います。同じように歴史に触れ心の拠り所を感じることも尊いことですが、今もなお生きた歴史をこれから触れられることはもっと尊いことです。実際に見て感じて自分自身で対話を通して感じていきたいと思います。
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先日の点塾でのネイチャービンゴで呼び覚まされた感覚は、まさに自然との対話だったように思えます。あのように丁寧に感じ取る・応えるという遣り取りが無くなれば、生きていても本当は生きていないと同じなのかもしれません。物との対話も歴史との対話も、あの研修の時と同じ感覚で、じっくりとそれが何であるのかを感じ取っていきたいと思います。
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「文化」というものは、観光気分で少し味わったくらいではわからないものです。一時的な「興味、関心」では、都合のいい解釈しかできないでしょう。また、「対話」にも、その深みの違いがあるでしょう。常に傍に置き、常に眺め、実際に使ってみることによって、初めて、その時代の声が聞けるようになるのかもしれません。焦らず、手間暇をかけ、ゆっくり味わいながら、じっくりと付き合ってみたいものです。
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砥石と向き合った時、何をどうしたら良いのか分からず、固まりましたが、触れていく中で何となく感じるものがあり、やりながら学んでいきました。分からないものや、古いものには自分を磨いて下さるものがあります。
古きや自然に飛び込んでいき声を受け取りたいと思います。