「奥ゆき」という言葉があります。奥ゆかしいという言い方もしますが、これは表から奥までの距離が深いときに使われるものです。またこれを人に例えると、知識・思慮・人柄の奥深さで使われます。この奥ゆかしさというのは、慎み深さになり日本人の大切にしている心とされてきました。
この奥ゆかしさというのは、町家の再生を通して何度も感じ直します。特に町家は、繊細なつくりで奥行きがあります。今、復古創新している聴福庵も間口を入った隣から部屋から一列に三室あり、その奥に庭がある造りになっています。奥に光が差し込み明暗が織り連なる様子はまるで神社の杜のように物静かで落ち着きます。
この「奥ゆかしい」とは何か、少し深めてみたいと思います。
この奥ゆかしさの「ゆかしい」は、「行く」の形容詞化したもので心がそちらにひかれるさまを言います。他にも慕わしく心ひかれるさまにも使います。決して派手ではなくても深み懐かしさを持っているさまの意で人にも自然や感覚的事象などにも用いられる表現です。
この奥ゆかしさというのは、穏やかという言葉と共に用いられることが多く人柄や雰囲気の中に和の心があるということでしょう。この穏かで奥ゆかしい人とはどのような人物であるか、それは謙虚な人物ということだと私は思います。
つまり徳を磨く精進を怠らず、克己復礼に自らを高め続けている人物とも言えます。そういう人物は自ずから次第に品格というものが備わってきます。そこから上品であること、謙虚であること、慎み深い穏かな人物像が出てきます。世間では、控えめで出しゃばらないことを奥ゆかしいと勘違いしている人もいますが、実際の奥ゆかしさとは隠れた日々の鍛練と実践によって磨かれて薫るものです。
この町家の中の奥ゆかしさは、日々に家を手入れし怠らず日々の暮らしを丁寧に生きている人たちの情緒深さ、また奥にいけばいくほど魅力があることを感じます。表面上ばかりをよくみせて中身がない建物というものは、奥ゆかしさを感じません。それよりも表面はシンプルで質素であっても、中に入ってみたい、奥行きを感じてみたい、好奇心から奥がどのようになっているのかを知りたいと感じられることが奥ゆかしさの価値だと私は思います。
そしてそのように奥ゆかしさを引き出すことができるのは、その人物や家に「思いやり」があるからです。表面上の対話ではなく、深く相手を思いやっている人はその思いやりの中に奥行きがあります。聴福庵の目指す聴福人の姿もこの奥行きのことで、対話を通して「きっとこの方にも私には分からない何か大切なことがあるんだろう」と傾聴すること、そしてきっとまだ奥があると共感し受容すること、最後はその真心に感謝するということを実践目録としています。
奥ゆきのある暮らし、奥ゆきのある人々、奥ゆかしい生き方を子ども達には譲っていきたいと思います。引き続き、復古創新をしつつ日本人としての暮らし方を観直していきたいとおもいます。
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鳥居をくぐり参道を進むにつれ、心が鎮まるあの感覚は独特なものがあります。普段、エレベーターで上り下りすることはあっても奥へ奥へということはありません。聴福庵で感じた奥ゆき、そこに未来を感じました。「奥ゆかしい」という表現の豊かさに、日本人の生き方が凝縮されていると思うと遣う言葉から大事にしていきたいと感じます。
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人やものの「魅力」は、わざわざアピールしなくても伝わるものです。人には、そこに薫るもの、その背景に感じるもの、あるいは、その奥に控えるものを察知して、本当の魅力を見極める力があります。それは、言い換えると、「部分の質」を見て、その「全体の質の高さや品格」がわかるということです。そういう意味では、「奥ゆかしさ」こそ、「ほんもの」が持つ魅力と言えるのではないでしょうか。
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「奥ゆかしさ」その日本語、その言葉自体に奥ゆかしさを感じるように思います。今は何となくそうであろうという感覚しかなく、昔の人に比べて感覚が言葉に追いついていないのかもしれません。それ自体が暮らしが変わった、暮らしを失ったということなのかもしれません。実践を通してかつての日本人が持っていた感覚を取り戻していきたいと思います。
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実践者の方々には、語らずとも感じるものがあり、また語られるとその言葉の奥にあるものを感じます。実践を積み、変わり続けることの大切さを言葉を通じて伝えて下さりますが、家もまた、同じという事なのだと今日は学びました。暮らし方を変えている最中ですが、このプロセスを味わって行きたいと思います。