光には反射というものがあります。反射するものを観ては光を感じますが、太陽からの光は同じであっでも反射するものによっては同じ光ではありません。水も光も透過する力があり、私たちはその透過を通してそのものの本質を直感します。

例えば、ピカピカに光るといっても新品で真っ新なものが光るのと、古いものを丹精を籠めて丁寧に磨き上げ光るのでは同じ光ではありません。前者は無垢の光であり、後者は経年変化した光です。

私たちはこの同じ光を通して新しい光と古い光とを見分けています。しかしよく考えてみればわかると思いますが、新品は必ず時間とともにくすんでいきます。そのままにしていたら古いものになっていきます。そうして磨き上げることを怠ればそれは朽ちて廃れていきます。そのものから光は消え光が反射することもありません。

よく古いものを無価値だと思い込み、ただ同然で捨てている人がいますがそれは磨いていないから朽ちて要らないものだと勘違いするのです。もしもそれを丹精を籠めて丁寧に磨くのならそれは宝石のような光を放ちます。

つまり光の反射をまた受けて甦り輝き出すのです。私たちは光を浴びてその反射で光ります、すべての物体は目と光との反射作用によってカタチを現します。もしも漆黒の闇の中に入れば、光が目に反射することもなく物体は完全に消えてしまうのです。闇夜の灯りが周囲を照らす瞬間に物体の本質が顕れるのもまた、その光を受けてはじめて顕現するのです。

光はその物質の本性を見せてくれます。磨けば光るのもそのためであり、そのものの本質を光が投射投映するのです。光は歴史を顕し、そのものの経過をも透過します。そして光が経過を透過するときそのものの徳が顕現します。

私たちは磨けば光る原石でもあります。それは全ての物質物体において言えるものです。そこには光がとても深く関わっているからです。宇宙や太陽が照らすのは私たちの本性です。

引き続き子ども達のためにも磨いて光ることの安心感と、光ることの本質を伝承するためにも学問を深め、子ども第一義を伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    「光る」というのは、実際には、「乱反射」して光っている状況をいうのでしょうが、視点を変えると、「光る」とは、「光を宿すことができる」ということではないでしょうか。「光」は、無明を照らすための「明かり」でもありますが、あらゆる生命を育むための「愛」でもあります。すなわち、「光」は「いのち」そのものでもあります。そのいのちを宿し、自分の仏性、神性、良心を輝かせるために、日々磨き続けていきたいと思います。

  2. コメント

    日差しの強い時、暖かく包んでくれるような時、時期によって異なる光が自然の風合いを醸し出していると思うと、四季のめぐりの豊かさを感じます。作り手がいてその想いに馳せ磨き続けていたら、輝き喜ぶのだと先日感じました。自分自身も同様に磨いていきたいと思います。

  3. コメント

    昔から何かをあらわす時に「光」が用いられることが多いように思いますが、描こうと思っても描くことは出来ないのは、そういうものだからなのかもしれません。先日、ある園の子ども達と一緒に給食をいただく機会がありましたが、彼らはまさに光のような存在でした。同じような輝きを大人からも感じる時、それはその人が持っている子ども心のようにも思えます。本来の輝きを大事にしていきたいと思います。

  4. コメント

    いまの自分の光具合を見れば、輝いているかどうか、磨かれているかが分かるのかもしれませんが、自分の場合はよくわからなくなってしまう事もあります。しかし、毎日の実践はその状態を知る手掛かりをくれるだけでなく、長い時間を掛けて磨いてくれています。その安心感は安らかな光です。皆で大切にされる実践や習慣が宝と感じるのもそんな気持ちからかも知れません。場が作り出す光、1人では出来ないからこそ、そんな環境をみんなで作って行きたいと思います。

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