暮らしの再生

昨年より「暮らし」について考える機会が増えています。この暮らしとは何かといえば、私の定義では生き方のことで道のことです。どのような道を歩むのかが暮らしの本質であり、道があるから暮らしがあります。道なきところに暮らしはなく、どのような道を歩むかが暮らしの再生とも言うように思います。

昔は人々が歩いていくところに道ができました。山野にいけば、獣道というものがあります。自然農の畑にも、雑草の合間に小さな道ができています。そこを通っている動物たちが何度も何度も行き来するうちに次第に道ができてくるのです。今は道をアスファルトで固めてしまっていますから、通ろうが通るまいが道ができたままで存在していますがかつては通らない道はなくなっていったのです。

つまり何度も往来するからこそ道ができ、その道が絶えないのはそこに歩んだ暮らしがあったということです。

例えば今はあまり神社に参拝する機会が少なくなったように思います。古来から私たちの先祖は受けた恩徳を忘れずに感謝の心で謙虚に暮らしていました。そのことから神社への参道はその往来の中で真心が洗い清められ清々しく澄んだ空気が道に宿ります。

それをある時期から宗教だと分別され、本来の暮らしの中にあった神道も今では暮らしから引き離されたところで理解されていることも増えているように思います。古来のかんながらの道には、常に御縁を信じて御縁に活かされその天恩や徳恵、御蔭様を忘れずに暮らしてきた様子が随所に遺っています。

遺っているものを省みると、その時代時代に生きた人たちの生き様が道として顕れます。その道とは「暮らし」のことで、その暮らしが受け継がれてきたことで道は存続してきたとも言えます。

その道が変わってしまうということは、暮らしが変わってしまうということです。暮らしは生き方でもありますから、生き方が変われば生き様もまた変わります。日本人としての生き方、日本人としての生き様、世界は多様性を発揮する時代に入っていますから私たちの個性の大元である日本の真心がなくなれば世界で活躍できることが少なくなるかもしれません。

子ども達は今のような答えのない時代、さらに発展すれば近い将来にはそれぞれの持ち味を活かして世界に貢献していくことになるのでしょう。その時に如何に多様性を持つかは国家の存続と大いに関わっています。日本人が世界で活躍できるように私たちは暮らしを持つ必要があります。暮らしの再生とは、日本人らしくあることの再生でもあります。

引き続き子ども達のためにも暮らしを見つめ直し、道を歩んでいきたいと思います。

  1. コメント

    「感性の表現を行う暮らしを提案しています。」そんな手織り屋さんへ行ってきました。機械は均一に織れるけれど、手織りには手織りならではの温もりがありますと、織り上がってみると確かに機械には出せないであろうほつれや歪みがあちらこちらにあります。手織りの温もり以上に、そこで働くスタッフの方や織りに来ている人の温かさがあり、本来の暮らしは温かなものなのだろうなと感じました。手仕事を通して温かな大人を目指していきたいと思います。

  2. コメント

    暮らしのなかに「感謝の心を育てる機会」が減ってきているのではないでしょうか。特に、親や先生が、あるいは先輩が「感謝している姿を見せること」が減っているのでしょう。人は、「感謝」できないと「謙虚」にはなれません。「謙虚」になれないと人の「真心」も見えてきません。いつの間にか、人間が偉くなりすぎているようです。「傲慢」な道がアスファルトで固められているので、そこを通ってしまう人が絶えないのかもしれません。

  3. コメント

    「暮らし」という言葉を多く使うようになりましたが、まだまだ体感しているものが少なくこれからという感じではあります。家に帰って来て却って違和感を感じるというのは今まで味わったことのない不思議な感覚ですが、同時にそれは未だに分かれているという合図なのかもしれません。自分自身がブレずに日々に省みて変わっていきたいと思います。

  4. コメント

    梅干し作りも授業ではないからこその子どもたちの姿があります。手伝いたければ手伝い、飽きればまた離れ、新しい工程になればまた興味を示し、手伝いたければ手伝い、と実に自然だなぁと感じます。毎年、子どもたちが手伝う中身が増していたり、覚えていることを思うと、この暮らしを続いていけば、味噌や梅干し作りを通じて何かが子どもたちに伝わるように感じます。頂いた智慧や技術を自分のものに留めないように、日々工夫して行きたいと思います。

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