町家再生を深めている時、町家大工棟梁の「京 町家づくり千年の知恵」山本茂著(祥伝社)という本に出合う機会がありました。その著書の中で京都の枳穀荘という旅籠が紹介されていました。
今回、その枳穀荘に御縁をいただき宿泊しお話をお伺いすることができました。千年の知恵とは何か、改めて日本人の原点について考えました。それを少し整理してみたいと思います。
そもそも日本人というものはこの自然風土に融け込み自然と一体になって暮らしてきた民族のことです。自然は悠久の年月でじっくりと循環していく存在ですから、その偉大な循環に沿ってその中で自分たちも一緒に暮らしを育んできました。もしもその自然の循環に逆らって生きていたら千年持つということは考えられないと思います。
昨日、枳穀荘の当代から日本建築のことをお聴きしました。その時、日本建築の素晴らしさを教えていただきました。日本建築とは、日本の気候風土に合わせて建てられたものです。町家は、通り庭、おくどさん、季節のめぐりに沿って建具を変えて風を通し水を活かします。木は、夏の湿気で膨張し冬の乾燥で縮小する、このように呼吸しながら今も生きていると言います。
京町家を視察し、様々な暮らしを体験していると千年生きる人たちが如何に「自然と調和」しているかに気づきます。美しい暮らしの中には、千年が今も息づいています。その千年に映る自然は、謙虚に自然の廻りに沿って町を形成し町を活かした町家の姿があります。
町家の中の調和は、千年の仕組みで満ち溢れていました。木、土、石、そして水、風、光、その調和は美事なほどで、お祭りを中心に風土に沿った年中行事を実践する。そこに代々受け継がれている人々の文化を感じると、流れている歴史、悠久の循環を感じます。風土の中にいにしえから今まで続いているものを自然との調和、美しい暮らしを同時に思います。それをふたたび「千年」という尺度で観直すとき、日本人の原点を感じ取るのです。
今回、私が最も感じた千年の知恵とは自然に逆らわない千年の都の中にある自然との調和、美しい暮らしのことです。
今の時代は便利か不便かで判断をし、そのどちらかに偏っているように思います。しかしそのモノサシで行動するのではなく、これは千年持つのかという千年のモノサシを持つことで常に自然との調和が働くように思います。
本来、私たち人間も自然物の一つであり日本の先人たちは自然と調和することを何よりも重んじてきた民族だったからこそ、その暮らしぶりもまた自然と調和していることを優先して生きて来たということです。まさに先祖たちの継続の偉大さはこの一点に尽きると私は感じます。
これからの時代、膨張から縮退へと時代は刻みます。少子高齢化はますます進み、経済の姿は一変することでしょう。その際に必ず日本人は原点回帰を迫られてくると私は思います。
本来の日本人が何を大切にしてきたかを学び直し、それを正しく実践することが、子ども達の未来に今の世代の私たちが責任を果たすことになります。引き続き、町家再生を通して日本人の原点を磨いていきたいと思います。
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今日、明日のことで悩むこともあり、千年という尺度はスケールの大きさを感じます。ただこれから千年後を思ったとき、どれだけのものがあるだろうと考えてしまいます。竹取物語が千年読み継がれ今に至り、その物語の続きを今描いていると思うと今一度考え直す機会であり、タイミングなのだと感じます。共に学びともに実践して暮らしを深めていきたいと思います。
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ものごとは放っておいたら続きません。必ず、朽ち衰退していきます。また、歴史には、試練もあり危機もあるものです。そのなかを生き続け、生かし続けるのは、先祖の工夫努力の積み重ねであり、これまでの日本民族の智慧の結晶でしょう。古民家等の日本の家屋は、知れば知るほど、人を生かす環境であることに驚きます。「千年」ということをひとつのキーワードに、日本と日本人を見直してみたいと思います。
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和をもって尊しとなす、今もなおそれが日本人の精神となっているのは、自然の道理にそっているからなのだと理屈ではなく感覚で感じることが出来ます。もしかつての日本が作物も育たない厳しい環境だったとしたら、自然との調和よりも征服することに意識が傾き、それがそのまま国民性になっていたかもしれないと思うと、自分たちの和の心もまたこの日本の自然の一部なのだと感じられます。愛すること、赦すこと、大きな思いやりをもって調和していく人になっていきたいと思います。
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徳宝酬をやり続ける中で、残していきたい暮らしや働き方が見えてくるように感じています。徳のある暮らし。何年でも残していきたいものです。まずは自分自身。1つでも、1つずつ、その暮らしや意味を実践から学び、歩みたいと思います。