人生の旅の醍醐味

日々を過ごしているとふと心が遊び旅に出たくなることがあります。旅は自由の原点であり、自由は旅を味わい深いものにします。そして人生は旅そのものであり、いつも心は旅をしているとも言えます。時折、風に吹かれ風任せに漂泊の旅に出たくなるのも心がバランスをとるために感応するからでしょう。

旅には目的や到着点があるものと、あてのない旅というものがあります。実際は、旅をしている以上に心が旅を味わっていて旅の意味は旅の最中よりも旅の後に振り返る中で気づくことが多いものです。いまの自分のいるところから離れつつ身を捨てて彷徨い流離ってみると、本当のことや真実が観えてきたりもして自由に発想を楽しむことができるものです。

漂泊というのはまるで階段の踊り場のように時折、歩みを止めて休みを味わうことに似ています。そして小舟が流れのないところでゆらゆらと揺られている様子はそこからどこかへ進むための準備をしているようで宙ぶらりんのままにいつの日か動き出すのを待つかのような心境があります。

私も振り返ってみたら大切なものは大切なままに不動ですがそこまでのプロセスや生き方は放浪や流浪のようでまるで一定に一直線にいっているわけではありません。

山あり谷あり、また川が様々なところにぶつかって曲がりくねっていくようにどのようになるのか先々のことは好奇心が面白いとおもうばかりで予想がつきません。目指す方向は決まっていても、そこに辿りつくまでの間が旅の醍醐味ですからどんな仲間に巡り会い、どんな道の御縁に出会い、どんな未来が拓けていくのか、それはすべて運任せ風任せです。

そういう運任せ風任せの心境というのは、人生の旅の醍醐味です。

毎日は規則正しく過ぎてはいきますが、いくつになってもいつまでも心の赴くままに漂泊をし続けて歩んでいくことを味わい盡していきたいものです。自由の森の心を持つ子ども達へ松尾芭蕉の句で贈り締めくくりたいと思います。

『月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、「 草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家 」 表八句を庵の柱に掛け置く。 』

・・・日々に旅にして旅を栖とす、その覚悟をもって道を愉しみたいと思います。

 

  1. コメント

    16、7歳の頃、悩み考えたあの時期があったからこそ今があるのだと10年が経ちそう感じます。漠然と毎日悶々としながらも言葉に出来ないもどかしさは一向に晴れないまでも、心の奥底ではすでに決めているもう一人の自分もいました。その想いそのままに10年、少しずつ形になってくるとこれで良かったのだと改めて感じます。これから先もどうなるかわかりませんが、これまでと変わらず20年、30年とまた想いを育て、実践を積んでいきたいと思います。

  2. コメント

    「遊び心」を起こすことはできても、それを持続するには、かなり覚悟が必要です。特に「そんなことしている場合じゃない!」という外野の声や、ときには、自分自身の心の声に負けそうになります。しかし、いちいちその声に負けていたのでは、自分のほんとうの道を歩めません。そういう意味では、「心の赴くままに漂泊し続ける」ということこそ、命懸けの道なのかもしれません。

  3. コメント

    昨日の朝の追体験のからのこの話に親心を感じます。自分自身も若い頃は(まだまだ今も若い??)旅に憧れ当てのない旅をしたこともありましたが、今は人生そのものが旅であり、あらためて旅立つのではなく既に旅の中であることを感じます。その旅をどのようなものにしていくのか、シナリオは決まっていないからこそ、どのようなものにも意味があると思い、全てを受け取る姿勢で歩み続けたいと思います。

  4. コメント

    人生そのものも大きな旅だと感じますが、昨日の話を聞き、テントを担ぎ、深い山の中へ旅に出たいと感じました。それは、なにか自分の初心を見つめる機会や自分のちっぽけさ、自分の使命、色々なことを森を漂流する中で教わりたい、再確認したいと思うからだと感じます。表面的な娯楽ではない過ごし方を大切にして行きたいと思います。

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