人生は不思議なもので意味がないことは一つも存在していません。ただ意味があると感じていないだけで、すべては有機的につながって存在しています。因果応報などもそうですが、今あることは以前に何かをしたことが時間をかけて自分に返ってきます。
私達は今目の前のことで一杯になってしまいますが、本来なぜ今があるのか、今があるのはどのようなつながりの中で発生しているのかを省みるとき、今目の前に起きていることはずっと以前にその原因があることを思い出すのです。
世の中にはそれを自覚している人と、自覚しない人がいるだけのように思います。
長い年月をかけて醸成されて事が起きると自覚する人は、今、此処の自分の実践が将来どのようなことに繋がっているのを直感することができます。しかし短絡的に自分のことだけを考えている人には将来のことが直観することができません。
大事なことは「省みる」ことであり、自分が日々に意味を見落としていないか、意味を感じてその意味が何につながってどのように変化していくのかを見守り待つことだと私は思います。
そうして省みて、意味が繋がってきたならば人は次にそれを善きものへと転じようと思うようになります。つまり日頃云う一円観と同じですが、如何に禍転じて福にするか、福を転じて幸福にするかはその人の心の持ち方、自分を変えてさらに善いことへと努力精進していこうという日々の変化循環に合わせていこうとする自然の運に沿って生きていくことができるようになっていくように思います。
しかしそれを邪魔するのは、自分の思い通りにしたいという自我欲や自分勝手な我儘を優先するときに発生してくるように思います。たとえ自分に少し都合が悪くても、それが周りのためになるのなら少しだけ我慢する、自分ばかりをあまり快適にしないように慎み生きていけば自ずから自然の運に近づいていけるように思います。
かつての日本の先祖たちの暮らしに垣間見えるように、私たちはいままでどのように暮らしてくることで感謝をわすれないようにしてきたか。そして昔から自然の運に逆らう事を戒め、いかなる修身修養を実践してきたか、これは人類が助け合い生き残るための智慧として継承してきたことと思います。
快適過ぎない中にある真の豊かさに気づけるような生き方を実践してきたいと思います。
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最近、将来自分は染織家になるのだろうかと思うことがあります。藍の淡い水色に染まった糸で何を織ろうかと思うこともワクワクしますが、これが将来の何に繋がっているのだろうと考えることも楽しみではありますが、今はまだわかりません。そして、自然が織りなす草木の色に惹かれる自分がいます。今の自分を省みて、これまでの余計な刷り込みを省いていけるよう、自然から頂いた豊かな色を織り合わせていきたいと思います。
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「快適過ぎない中にある豊かさ」という基準はとても大事だと思います。ないものを求めるのは決して悪いことだとは言えませんが、与えられているものを「もう少し欲しい」と思う辺りから「余分な欲」になるのではないでしょうか。「腹八分目」という言葉は、食事のことだけを言うのではありません。あるいは、大阪には「ぼちぼち」という経営の判断基準があります。「満たさない」という智慧とその美しさを学びたいと思います。
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最近は、日々にいただいたメッセージに一歩踏み込んでみることを心がけています。省みれば受け取り切れないほど多くの好機がこの世界には満ち溢れていていることを感じますが、これも自我へと向かわないようお蔭様を見失わないようにしたいと思います。「必ず事前に神社に参拝するのは、その後に起きたことを自分の力と思わずに『お蔭様で…』と言えるから」という、先日のお話にあったその姿勢を大事にしたいと思います。
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自分で満たそうとすると満たされている事に気づきません。不足の念がどこからとも無く湧いて来てはそれとの戦いをしています。
自分の事ばかり考えていれば、せっかくの実践も意味が変わり、満たそうとする感情に変わります。感謝や謙虚さはどこまで行っても終わりは無く、磨いて行くものなのだと思いますが、遠く目を凝らすと、自分自身もしっかり1つ1つ歩みを深めている事が自信に繋がります。