先日、京都でイエローハットの鍵山秀三郎さんが主宰する「トイレ掃除日本を美しくする会」の方に講師に来ていただいて掃除道の実践に参加する機会がありました。京都市長も一緒に隣りあわせで掃除ができ思い出深い時間を過ごすことができました。
最初は自分の家のトイレでもないものを素手で掃除すると聞き驚きましたが、実際にはじめてみると綺麗に磨かれ美しくなっていくトイレに愛着を感じていきました。それに自分のではないものを綺麗に掃除していくこと自体が心地よく、今回の掃除で掃除の持つ妙味が改めて深くなったことに感謝しています。
その日は、トイレには「烏枢沙摩明王」(うすさまみょうおう)という神様がいるという御話からはじまりました。この神様は、家の神様の中のひとりで7番目の神様と呼ばれます。真言は「「おんくろだのうんじゃくそわか」と言います。
仏陀の教えの中にはこの神様の功徳は、自身洗浄(自分の心が清められる)、他心洗浄(他人の心まで清めることが出来る)、諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)、端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)、命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)とあります。
昔の伝承として帝釈天は仏陀が糞の臭気に弱いと知り、仏陀を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまった。そこに烏枢沙摩が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏陀を助け出してみせた。この功績により烏枢沙摩は厠の守護者とされるようになったといわれています。もともと便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今にいたるといいます。
鍵山さんは、トイレ掃除は心身を磨く最高の道場であるとし掃除を実践すれば1つ目 謙虚な人になれる、2つ目 気づく人になれる、3つ目 感動の心を育む、4つ目 感謝の心が芽生える、5つ目 心を磨くことと言います。
謙虚な生き方を通して人は見えなかったところが次第に観えてくるように思います。また鞍馬寺の貫主様も「掃除は見えないところこそ丁寧に磨くことが大切です」と仰っていたとお聞きし、掃除とはなんと「磨く」言葉に溢れているものかと有難い気持ちになりました。
昨年は「磨」をテーマに一年を過ごしましたが今年は「徳」をテーマに一年を過ごしていますが実践が深まり有り難いご縁に結ばれていることに感謝することばかりです。
トイレ掃除から烏枢沙摩明王を拝み「場」を学び直して実践を高めていきたいと思います。
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烏枢沙摩明王様は怖いお顔されていると感じましたが、仏陀を助け出すほどの方、行動によって示すその姿に刷り込みに怒りを表しているようにさえ感じます。仲間の実践を聞かせてもらう中で、自分は自然の色に染まる美しさに心を奪われていましたが、内面を磨くことで現れる美しさを教わり、目に見えるかどうかよりも大事なものがあるのだと感じました。わかった気にならず自分自身で掴み取っていけるよう実践を積んでいきたいと思います。
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トイレ掃除は、傲慢心を打ち砕くための「下座行」でもあります。しかし、やればいいというものでもありません。そこには、「やり方の違い」があり、その違いによって「深さ」も違ってきます。また、これでいいという基準は自分で決めるものですから、目指す心境によって、その功徳も違ってくるでしょう。目的を外して、実践のなかでつかんでいきたいと思います。
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いつかめぐり合うと思っていた「掃除道」と、こんな形で出逢うことになるとは、その運命の不思議にワクワクする感覚です。一時も早くも遅くもなく、今このタイミングでいただいたこのメッセージが何を意味しているのか。人生の岐路で鍵山さんの著書からチカラを頂いたことがありましたが、今は実践を通して観ていらっしゃるものを自分自身も掴んでいけたらと思います。
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手でトイレ掃除をするのには抵抗があるのが自分の心にある事に気づきます。しかし、出来ない事ではないとも感じます。実際にはした事がないので、それが自分自身ですが、同じく仕事でも人生でも、心の抵抗があります。この心の抵抗を外して行くことが修行だと感じます。楽ばかりせず、修行する楽しみを選択して行きたいと思います。