古民家の再生をはじめている中である方から「家に喜んでもらえるような使い方をすること」と教えていただいたことがあります。この「喜ぶ」というのは、そのものが活き活きと仕合わせになっていくということです。
この「喜ぶ」とは何か、少し深めてみたいと思います。
もともとこの字の成り立ちは、打楽器を打って神様を祭り、神様を楽しませるという象形文字でできています。芽出度いとき、楽しいとき、仕合わせを感じるときに使われる言葉です。この喜ばせようとする心、おもてなしとも言いますが素直に感謝を伝えるときの姿であるとも言えます。
そもそも私たちは天からの授かりものであり、自分たちのすべてのものは預かりものでもあります。そうやって活かされている自分たちが天からお土産をいただき、その御礼として感謝を祭るのは自然の行いです。こういう感謝の姿の中に、生き活かされる不思議な喜びを感じているとも言えます。生活の中に存在する暮らしが楽しいのは、いただいているたくさんのものに対する感謝の心の現れだとも言えます。
家が喜んでもらえるような使い方とは、これを主語を変えれば道具が喜んでもらえるような使い方、または相手が喜んでもらえるような使い方、自分に置きかえれば自分が喜んでもらえるような使い方をするかということになります。
道具を飾るのも、または大切に扱うのも、もしくは綺麗に手入れして磨いていくことも、それはその対象に喜んでもらおうとする自分の感謝の心が投映するからです。そしてこの状態こそ、「喜び」そのものであり、仕合わせを味わっているのです。
どんな気持ちで日々を過ごすのかは、周りに対する感情の影響をあたえます。周りやみんなにいつも喜んでもらいたいと自分を使う人はみんなに喜ばれる存在になります。逆に、自分のことばかりを思い悩んでは周りに文句をいい自分を嘆きかなしみ、過去や未来を憂いてばかりいては周りに心配をかけるばかりで喜ばれません。
この「喜ぶ」という姿は、いつも感謝している状態のままでいるということです。言い換えるのなら、いつも楽しそうにしている人や、いつも喜んでいる人、いつも幸せそうに振る舞う人は、周りに対して素直に感謝の心を忘れない実践をしている人ということになります。
子ども達が楽しそうにはしゃぎ、喜ぶ姿には神様に対して素直にしあわせの心を示す感謝のカタチがあります。「うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたい」などの感謝を顕す言葉は相手を喜ばせたいという気持ちに満ちています。
もっともっと喜ばせたいと思う心が相手を自然に尊重し、相手をおもてなしもったいなくその価値やいのちを活かそうとする心がけになるものです。喜ばせているのは何か、喜んでいるのは何かを忘れずに「喜ばせる実践」を愉しんでいきたいと思います。
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机の上に重いものがずっと置いてあると、「机が悲鳴をあげている」等と言って注意します。机から見ると、人間の自分勝手で都合のいい発想は「勘弁して欲しいもの」かもしれません。「そのもの(相手)から自分を見るとどう見えるか?!」「そのもの(相手)からすると、どのように使われるのがいちばん生き甲斐?があるか?!」と考えるのは、「自分の都合を外す」方法としてはいい方法です。時どきは、「吾輩は猫である」的な視点で、人間都合をチェックする必要があるかもしれません。
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主語を変えていくとどんなものにも心があることに気づきます。自分が相手だったらと思う時、それは人だけでなくモノにもコトにも人にもだということを感じます。表面的な嬉しいではなく、相手の心に深く寄り添っていけるよう名に恥じない実践をしていきたいと思います。
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いつの間にか軸足が自分に置かれていると、自分の心配ばかりになってしまいます。相手の心配をできる状態でないと寄り添いが始まらず、喜びも持ち味も味わえないと気づきました。日々の暮らし、働き、そこに全てが実践として現れますが、特に朝の時間の使い方を切り替え、歩んで行きたいと思います。
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それが自然体なのか?というのがとても重要なように思います。手っ取り早く頭で先回りして理解し見た目を誤魔化すことは容易ですが、いつかその反動が来たりメッキが剥がれるものだと思えば、そんな無駄な努力は棄てて、本心を偽らずに心のままに愚直にやりきり、時に痛い目を見ながら本心の方を磨いていきたいものです。「喜ぶ」も「感謝」も言葉で捉えず、本心と連動する実感の方を大事にしたいと思います。