以前、樹木研修で樹木がどのように生きてきたかを深める機会がありました。樹木たちは自ら他の樹木と競争しないように自ら厳しい環境へと移動して生き残っていました。生き残りの戦略というのは、周りと戦って勝ち残るのではなく自分自身が厳しい環境に「適合」し誰も来ないような場所へと移動しそこで「適応」することで克ち遺るという具合です。
これは自然界の理であり、私たちはこの勝ち残るということの本質、そして生き残るということの意味を学び直す必要を感じます。
人間の世界でもいつまでも適合もせず適応もせずに他と比較し自分の居場所を獲得するために競争し続けようとする人がいます。頑固に自分の存在価値を周りへ押し付けては、自分が一番になろうとします。しかし自然界ではそのような生き物はすぐに淘汰されており、生き残っているものはありません。人間は刷り込みによって自分という存在を歪められて、周りとつながっていない存在、自然から離れている存在だと自分自身で思い込んでいるから全体のことを考えず自分勝手に自分中心に物事を見るようになったのかもしれません。
本来、視野の広さというのは自分中心ではないということです。すべて丸ごとの存在としてみることができれば勝ち残るという意味も、生き残るという意味もはっきりと自明してくると思いますが常に人間自我が中心になっている人はどうしても視野が狭くなってしまうのでしょう。
自然界では棲み分けというものがあります。常に自分から他の種と争わないように移動していくのです。そのようにして今の地球の生命たちは多様化したとも言えます。今に遺る種たちは歴史を重ね自ら争わず生き残る戦略を優先して共生と貢献の社會を創造してきました。人間も本来はこのように個性が争わず、自分らしく適合適応していくのなら組織の中でも自分の役割が自然に分かれて御互いに協力して生き残るために助け合うことができるように思います。
いつまでも適合適応しないでいるというのは、進化でもなければ変化でもなく便利で楽な方を選ぼうとする人間の傲慢さのようにも思います。画一化されていく世界は人間のみ一番の中で勝手に役割を振り分け人間のために労働するようなロボットを製造し、バラバラに組織を分断化しているかのようにも見えます。
もう一度、全体に対して適合適応する生き方を示していくことが自分自我を手放し自然の理と一体になる方法のように思います。子ども達のためにも、自然に沿った生き方や暮らしを通して本当の意味で宇宙や地球で勝ち残る生き方、克ち続ける生き方、生き遺るための道筋をつけていきたいと思います。
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醗酵の実践が始まり発展していった数年前、食という切り口以外から学べないだろうかと思ったのが藍染でした。あの時は何故醗酵なのかまるで分からず、日本人としての食文化が大事だからと思っていました。あれから時間が経ち今改めて学ぶ機会、ご縁を頂けていることは本当に有難いことです。もし、学びを求めなければ何もなかったことを思うと、誰もまだ踏み入れていない分野に進み気づきに出会うたびに、きっとこういうことなのかなと思うところがあります。衣食住という本来の営みが途絶えることがないよう、生き方を示していけるよう実践を積んでいきたいと思います。
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「個」対「個」や、「部分」対「部分」という対立構造で見ると、「比較」が発生し、「競争」の世界が誕生しますが、最初から「全体をひとつ」と見ると、そこには「比較」も「競争」も生じるスキがありません。そういう意味では、自分と世界をどの範囲で認識しているか?!が問題です。認識するために「細分化」という方法論を学んできましたが、この発想から見直す必要がありそうです。
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全体を見るには聴く力が必要だと感じます。家の中でも聴く力がないと、自分勝手な全体最適になります。自分自身を振り返ると相手の声を聴いている時は、天の声を聴いていなかったり、自身の声を聴いていたり、バランスの悪さを感じます。簡単ではありませんがやはり、振り返りながらこのプロセスを意味あるものにして行きたいと思います。
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本来は自然とわかるようになるものであって、わかろうとするのは努力の方向性が間違っているというものなのかもしれません。自分のチカラでどうこうできるものではないからこそ、運任せ・天任せの方が余ほど確実かもしれないと、パターンを変えて遣り切ってみることの繰り返しでピントを合わせてみようと思います。