人間は自分のことが分かるまでに相当な時間を要します。ひょっとすると人生一生かけても自分というものが分からないものかもしれません。これは明治以降に個性という教育を受けてきたから余計に難しくなったとも言えます。古代においてはそのような自分という自覚もなかったときに発揮されてきた個性と、近代以降に個性と言われるものではその性質が全く異なるからです。
自分自身というものを知るには、本当の意味で人間のことをしらなければなりません。子どもを知ることも同様に人間理解が必要です。そしてその理解は自分を理解することで深くなります。そして自問自答といって人は自分と対話をしながら日々に決断していくものです。曖昧にしたままでいたら何も決まらずそのうち決まらない自分が分からない自分になっていきます。初心を忘れないことも、理念を優先することもそういう主軸を用いて自分自身の心を知り修正していく中で自分を理解していくもののように思います。
本来、自分というものがなかったらどうなるか、それは自然の一部になっているということです。私たちが目にする道具やすべての存在は自分と相対的に観ているものです。自分というものを思うことで相手がうまれ、自分というものと分けることで世界を分けます。
名前を持ち、相手と自分とを明確に分けてしまう。それ自体が人間の特徴でもありますが、自分というものを正しく理解するのはこの広大な宇宙の真理や自然の絶妙な法理など学ぶことが沢山あります。しかしもっとも学べることは、周りのために自分の真心を盡していくことのようにも私は思います。
自他一体というものは、自分が相手だったら、相手は自分だったらと自他を分けずに習慣を創りなおしていくことでもあります。そのうち、本当の自分はどういうものかは相手によって学び直します。相手を思いやるうちに自分の心境や自分の存在がどのようになっているのかが自明してくるからです。
人は自分のことが分からないのと悩むよりも、周りのために自分を役立てていこうと実践していく方が自分自身を自覚していきます。そうやって人は信頼関係を築くことで自分ということの本質に出会うのです。
自分のことは自分が考えていなくても周りがよく自分のことを知っている、そして自分の心配をしなくても周りはいつも自分のことを自分以上に心配してくれる。そういう根っ子にご縁への感謝の精神を持ち共生と貢献ができるのならその人は自立した人とも言えます。
自分という刷り込みを如何に脱却するかは評価をせず自他を裁かず、真心を盡して取り組んでいくことが何よりも肝要なのでしょう。引き続き、頼まれごとは試されごと、信頼こそ人間の根源の自己修養だと日々を練り上げていきたいと思います。
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織りをはじめて、そんな自分がいたのだと発見と驚きがあります。これからどんな自分に出会えていくのかが楽しみでもありますが、同時に原点とは何かを求めていきたい思いもあります。そこに何かヒントがありやってみたいと突き動かされた思いが自分を知っていくことのように思うからです。今できることを丁寧に、そして理想も先生方と一緒に描き目指していきたいと思います。
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人の愛情も真心も、性格も能力も、「人間関係」のなかで発揮されるものです。すなわち、「人間関係の深さ」そのものが「人間性を開発していく」ようです。したがって、「人間関係」なくして、その人を定義づけることはできないのではないでしょうか。「人との関わり方」を深めれば深めるほど「その人らしさ」も見えてきます。人は、「人間関係」で悩み苦しみもしますが、「人間関係」こそが、人を磨き、人を救う仕組みでもあるのでしょう。まだまだ「御縁」を生かしきれていないようです。
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自分が相手だったら、、と思うことの前に保身が働いたり、分けてしまうのは、その先に踏み込む勇気がないときや、自分自身が困っている事に向き合わず、そのままにしている時が多い事に気付きます。負の歯車は自他を分けることで広まっていくように感じます。何事も踏み込む足を強く持って、自他を信じていきたいと思います。
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「自分」という言葉の定義がそもそも今の自分が思っている「自分」と違うのではないかと思うことがあります。人間の脳みそのように分かっているのは僅か数パーセントであり、自我がなくなればこそ自分というものは無限の可能性を秘めていると言えるのかもしれません。何についても分かった気にならずそのものを引き出し続けていける自分でありたいと思います。