人間は同じような境遇にあっても同じように幸福を感じるわけではありません。例えば全てを持っているような人であったとしても、ある人は仕合わせを感じてある人は不幸だと嘆きます。これは貧富でも、境遇でも関係なく人は心と精神の持ち方次第でどうにでも見え方が変わるからです。
アメリカの教育者にデール・カーネギー氏がいます。自己啓発をはじめ、自分を自覚し目覚めさせるためにあらゆるプログラムを考えた方です。どのように生きるか、幸福とは何か、そういうものと向き合いそれは自分の考え方次第であるということをあらゆる角度から話してくださっているように思います。
「同じ場所で同じ仕事をし、名声も財産も同じような二人の人間がいても、一人は幸福で一人は不幸だ。理由は精神の持ちようが違うからである。」
「幸福はあなたが何を持っているのか、あなたが誰か、あなたが何処にいるのか、あるいは、あなたが何をしているのかで決まるものではない。ただ、あなたが何を考えるかで決まるのだ」
幸福とは何か、それは精神の持ち様であり何を考えるかといいいます。そして「幸福になりたければ、見返りを求めるな。ただ、ひたすら、他のために尽くせば良い。」ともいいます。「見返り」を求めて他人のために尽して自己満足に終始している人たちが多い中、見返りを求めることをやめて盡せというのは真心のことです。
そしてそれが出来ないと嘆く人にはこう励まします。
「気のふさいだ馬を見たことがあるか?しょげかえった小鳥を見たことがあるか?馬や小鳥が不幸にならないのは、仲間に「いいかっこう」を見せようとしないからだ。」
自分自我中心になればなるほどに周囲に自分をさらけ出すことをしなくなって自分らしさは消えていくものです。いいかっこうを見せようとするから失敗を怖がり評価を気にし力が発揮できなくなります。全身全霊で打ち込むことは言い換えるのなら仲間に自分をさらけ出しているということです。そして自分を仲間にさらけだすからこそ気が開け、元気に活発に愉しく人生が豊かになっていきます。
そして自己を開発していくために大切な没頭していくことの重要性を説きます。
「もし人生に退屈しているなら、何か心からやり甲斐があると信じている仕事に没頭することだ。「この仕事こそ生き甲斐だ、死んでも悔いはない」という気持ちで働けば、夢のような幸福な人生が訪れる。」
悔いがないと思えるような真摯な仕事をどれだけ本気でやっているか、心技体を全て注ぎ込む鍛冶師のように命懸けで打ち込む中にこそ道はあります。道を志して生きる人は安易に楽かどうか、損か得か、もしくは評価を気にしていたら豊かさや倖せに気づく力が減退していくのでしょう。
最後に、「惺々着」という「目を覚ませ」という禅問答があります。デール・カーネギー氏も自己を目覚めさせ自分を改革するのは自分と説きます。自分が本当の自分に目覚めなければ誰もあなたを起こしてくれることはありません。せめて幸福で豊か、真摯に命懸けで取り組む仲間たちの前でいつまでも自分をかっこつけるような他人事の自分は持っていないでいてほしいと願うものです。最後にこの一文で終わります。
「人生とは、今日一日一日のことである。確信を持って人生だと言える唯一のものである。今日一日をできるだけ利用するのだ。何かに興味を持とう。自分を揺すって絶えず目覚めていよう。趣味を育てよう。熱中の嵐を体じゅうに吹き通らせよう。今日を心ゆくまで味わって生きるのだ。」
味わい深い豊かな人生を、子ども達に譲っていくためにも主人公であることを忘れず常に安易な眠りにおちないように常に目覚めて溌溂と生きていきたいと思います。
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人は、自分が幸せだと思えば幸せであり、不幸だと思えば不幸です。したがって、幸福とは、「幸せになることを目指すもの」ではなく、「いまの幸せに気づき、味わうもの」ではないでしょうか。そのために必要なのは、「幸せになる条件」を満たすことではなく、「魂が煌めく」ような生き方をすることでしょう。幸せな瞬間を少しでも多く過ごせるように、今日も一日、心ゆくまで味わってみたいと思います。
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身体も心も体験を通して気づき感じ、自分達だったらこうしていこうと自分事として考える、それが目覚めのように感じます。言われるがままではわからない事、教わるばかりではわからず、教科書通りのような生き方は自分も子どもにもしたいものとは思いません。自分の身体を使って学び、内にある感覚を引き出して1日を味わっていきたいと思います。
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昨日も授業参観にこども神輿に大人神輿と沢山の出来事がありました。今朝はふくらはぎと上半身の筋肉痛を味わっていますが、これが昨日の1日の充実でもあるように感じます。今日もすでに始まっていますが、昨日までの積み重ねを味わい、今日を味わい、豊かにして行きたいと思います。
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体験こそ全てと思えば、どれだけ一瞬一瞬を味わうことが出来るかが問われるように思います。一年がより濃いものに思える時、その差は日々の生き方によるものであり、それは一日でも一時でも同じことだと思うと、本来ではない自分など入り込む隙も無いのが本当の人生なのだと、一時一生の覚悟を高めていきたいと思います。