先日、御神輿を担ぎ街中を練り歩きましたがこれは列になってゆっくりと歩くことだと言われます。しかしこの練るという言葉は、単にゆっくりと列になって歩くことだけを意味するのではなく混然と融け合ったり、こねて粘らせていくなどの意味もあります。
和を背負い、和を一緒にしていくというのは御神輿を担ぎながら一人ひとりが錬成していくということです。錬成とは、ねりきたえ立派な人に成ることをいいます。錬磨育成という言葉もあります。練り歩くというのは、練磨するということであり歩くことで心身や精神を磨いていくということです。
御祭りというものは、日々の暮らしの延長にあるものです。日々の暮らしは御蔭様に感謝し、自分自身を見守り支えてくださっているものへの恩返しとして御蔭様に貢献しようとする実践です。日々の年中行事もまたすべてはその御蔭様を忘れないために行っているものであり、目には見えないけれど自分をいつも陰ひなたから助けてくださっている存在への御礼として慎み執り行っているものの線上にあるものです。
この練るという言葉は「磨く」という言葉と同じ意味を顕します。つまりは磨き続けることで光り続ける、古民家再生で磨き直していても分かりますが古いものが新しくなり甦生するということです。
この甦生というのは、練り歩くことで実現します。練り歩くというのは磨き直すということで、常に日々に自分を磨き続けることで本質を維持し続けるということです。そしてそれを甦生とも言います。甦生は単によみがえることだけを言うのではなく温故知新していくということもあります。
本来の姿が、くすんでしまわないように、汚れて隠れてしまわないように、埃かぶって埋もれてしまわないようにと「練る」「磨く」のが甦生です。そしてこの御祭りの本質もまたこの甦生を意味します。
古くなっていくからこそ、磨き直す必要がある。自然の中においては自然が自然に戻そうと「回帰するチカラ」が働くからこそ、いつまでもこの世に遺しておこうと「維持するチカラ」を働かせるのです。
これが初心伝承の仕組みなのです。
御祭りを通して甦生を学び直しましたが、この甦生は単に町の甦生や人々の甦生に限らず、日本の甦生であり、魂の甦生にもなります。私たちが日々に生きている一日一日は御神輿を一緒に担ぎ道を練り歩いていることと同じです。何を実践することが御祭りなのか、その意味を間違うことなく本質を守り抜いていきたいと思います。
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保育現場で「行事のために準備をするのではなく、日々行っている保育を見せる」という言葉。これは決して理想ではなく、今回のお祭りや日々の実践でも同じことなのだと感じます。取り繕うことはできてもボロが出る、即席では息も合わず、その時に精一杯でした。日々の実践は自分自身を磨き、心を掃除していることなのだと思うとそこに光を感じます。磨き輝けるよう日々の積み重ねを大事にしていきたいと思います。
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「人間が練れてくる」という表現があります。経験や修養を積んで、人格が円満になる。人柄が円熟するという意味ですが、そこには、社会に「揉まれる」という意味もあるでしょう。人間関係に揉まれ、さまざまな試練に揉まれて逞しくなるとともに、ひと皮も二皮もむけてくる。「磨く」というよりは「磨かれる」あるいは「磨いていただく」ことで成長するのでしょう。日々の「磨き合い」という仕組みを生かしていきたいと思います。
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練るということも磨くということも、ただそれを行動としてやるだけでは本来の意味にはならず、ひと練り、ひと磨きに想いや願いを込めて行うからからこその修行なのだと思うと、熟練するほどに高まっていくのが本来なのだと思います。何に繋がっているかを忘れずに、一つひとつの実践を積んでいきたいと思います。
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神輿の体験から、暮らしと祭りが今は分かれてしまっていることを体感しました。暮らしの中に地域や氏神さまへの感謝がなくなれば、祭りはイベントになって行くと感じました。自分自身で言えば、日々の感謝の実践を疎かにしています。昨日から神棚の準備を進めています。まずは手前から実践して行きたいと思います。