人は和やかさというものを感じるようにできているものです。例えば、一つ一つ手作業で作られたものには和やかさがあります。また料理一つでも、丁寧に丹精を込めて作ったものにも円やかさや和やかさを感じます。
大量生産で機械で製造したもには、その和やかさというものがありません。不思議なことですが、この和やかさは私たちは無機物にかかわらず有機物にいたるまですべてこれを直観できるようになっています。
この和やかとは何か、それを少し深めてみようと思います。
この和やかさとは私の定義では、仲が善いということです。つまりは仲睦まじい姿を見ると私たちはそこに調和を感じます。争わず競わず、お互いに和している姿にわたしたちは和やかさを感じています。
手作業で手入れするものがなぜ和やかに感じるのか、それは素材と対話し、素材をどのように活かせばいいか、お互いに対話をしながら丁寧にお互いに作り上げていくからです。これはモノづくりでも料理でも同じで、そのものの素材を大事にすればするほどにお互いに活かしあおうとします。それを人々は和やかであると感じるのです。これは人間関係も同じで、一人ひとりを尊重しお互いの持ち味を活かしあう仲間同士はとても和やかな雰囲気が出ています。
しかしこの逆に、素材を無視し一方的に作り手の都合で作られたものは不調和な感じがして和やかさは感じません。和の反対語は、戦や差という言葉もあります。お互いに仲が悪くなり持ち味を活かさず一斉画一に単なる物のように扱われるとそこには不和が発生します。
不和なものに囲まれていきていると、次第にその不和の雰囲気が感性を鈍らせていきます。自然というものはみんな調和しています。なぜならお互いに持ち味を活かしては争わないからです。お互いの特性を活かしながら、お互いが助け合っていきています。食べ食べられるものも、本来は助け合っているのであり争っているのではありません。
私たちはこの「和」の心を何よりも大切に生きていくように親祖、天照大神のときよりずっと重んじてきました。そこには素材を大事にするように、仲睦まじくお互いの特性を活かすようにと理念が働いていました。
今は経済重視で大量生産大量消費の中で、その大事にしてきた理念から遠ざかっているように感じます、もういちど、私たちが永い時間親しんできたこの「和」の理念を取り戻す必要があるように感じます。
そのためにも日ごろから持ち味を活かす、個性を伸ばす、異なりを味わうといった実践が必要だと感じます。和やかに生きていけるよう、世の中の刷り込みを取り払っていきたいと思います。
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揺れに揺れ穏やかさを取り戻すことを我に返るというと思うと、それも自然の摂理なのだと感じます。和やか、穏やか、軽やか、健やかなど和語が持つゆとりと奥ゆかしさに自身を振り返る思いです。気づいたこの時からありたい方へ精進していきたいと思います。
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「不和」はやがて「不信」を呼び、その「不信」が「悪」を生じさせると言います。そういう意味では、この「不和」が問題の根源かもしれません。「不和」は、お互いを「受け入れることができない」ことから生じます。「小人は同じて和せず」と言いますが、その背景には「裁き合う心」があるのではないでしょうか。
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自分の本心からの声もそうですが、それぞれの声を丁寧に聴けることこそ何よりも大切なことのように思います。そしてそこから自分に矢印を向けて自己をしっていくことから、助け合い・活かし合い・お互い様、お陰様を忘れないよう、心の余裕をいつも心がけていられる自分自身になっていきたいと思います。
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合気道では和合を大切にしていました。争うのではなく、一つになる。一体になるという事が目的であることを聴いたとき、武道の道もこういったものがあるのだと感心しています。合気道の中になにか、見守ることや、寄り添う事、和といったことの本質があるように感じます。引き続き深めていきたいと思います。