昨日、福岡の聴福庵の近くで古民家の解体作業が行われていました。すぐに訪ねては、ちょうど昔の建具などを使えるものがあれば譲ってもらえないかとお願いしたら有難く了承してくれました。
中に入ると午前中からの作業ですでにほとんどが壊されていて、昔からのゆらゆらガラスや雪見障子、その他のものは粉々に崩れていました。それでもまだ残せば活かせるもので年代が古民家と同じものを探しいくつかを持って帰りました。
聴福庵に戻り夜一息ついて解体の家のことを振り返っているととても複雑な思いがして昨夜はほとんど眠ることができませんでした。今、私は必死に古民家再生をしていて長い年月をかけて手作業で丁寧に直して「なつかしい未来」のため子どもたちの代もいのちを大切にしてもらえるようにと祈りながら再生させ修繕していっている最中です。しかし解体の方は、これとは逆に一気に1日か2日で乱暴に重機を使って粉々に粉砕してゴミとして焼却します。
手塚治虫の「ブラックジャック」という本で天才外科医ブラックジャックという名医と、一思いに患者を安楽死させようとするキリコという医者の話が出てきます。なんだかそのシーンのことを思い出されました。その矛盾を抱えながらもブラックジャックは自分が生き続けるためにといのちの限り信念で患者を救い続けます。そのシーンが今回の古民家に似ていると感じたからです。
現場ではなんとか100年くらいたった古材の天井板だけでも残そうと業者さんに相談したら、板を剥がす手間よりも次の現場もあるのですぐに壊したいのが正直なところだと話をされました。解体は時間の方が優先だと仰っていました。解体現場を見渡せばその家に住んでいた人たちの思い出の品々があります。ここでは大切に処分するのではなく、あっという間にゴミになって捨てられます。しかし家に思い出と生きた記憶、そのいのちがあると思えば、再生を通して大切に修繕していくことと同じくらい、大切に処分していく必要があるのではないか。家にもいのちがあり、それまでの家族の暮らしを大切に見守ってきた存在、そういうものが再利用されていくというのが本来の解体ではないかと自問自答を何度もくりかえしました。
今は経済消費効果時間効率が優先され新しいものばかりが重宝され、古いものは価値がないように扱われます。古いものにはいのちがびっしり詰まっており、そのいのちは大切に受け継がれ使われる人たちによって甦生していきます。甦生し続けていくいのちは、人々に安心感を与え、先祖からのつながりを結び直して地域のご縁、報恩感謝の絆を強くしていきます。
親切な解体業者の方々は、「使えるものがあればできる限りもっていってください捨てるだけだから。窓ガラスなどをすでに割ってしまったことを申し訳ない」と仰っていました。
これを見てただの私の妄想かもしれませんが本の中で手の施しようのない患者への安楽死をキリコが請け負うとき「命を活かすことと安楽死で殺すことのどちらがよいか?」と皮肉られた時の返答でキリコが「ふざけるな、おれも医者のはしくれだ。いのちが助かるにこしたことはないさ・・・」というセリフを思い出しました。
みんな何とかしたいと思っていても、どうにもならない宿命も現実もあります。しかし、私はこの世に生まれてきたものとして根本的なことを忘れてはならないと思うのです。そこにみんなが気づき、もしも協力していくのなら歴史もまた変わると思うのです。未来はかつての最も優しく穏やかで幸福であった暮らしに回帰すると思うのです。心は痛いですが、この痛みを忘れずにいることこそが古民家再生の要になると私は思います。
最後に、ブラックジャックのメスをつくる琵琶丸という刀鍛冶の遺言で締めくくります。
「天地神明にさからうことなかれ おごるべからず 生き死にはものの常なり 医の道はよそにありと知るべし」
引き続き、現実を直視ながら子ども第一義の理念を実践していきたいと思います。
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解体の話を聞き、写真を観るとやりきれない思いに駆られます。そして、同時に今自分たちが取り組んでいる意味、これが現実だと目の当たりしているようで解体が行なわれている事実が、どこか別の世界の話に自分は思っていたのかもしれません。「いのちが助かるにこしたことはないさ…」この言葉が沁み入ります。現実に起きている世界を肝に銘じ、その上で今取り組んでいる実践積み、いのちとの向き合い方を問いていきたいと思います。
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「針供養」や「筆供養」という風習がありますが、基本的に人間は、自分が世話になったものや愛着のあるものには感謝の気持ちを持っており、供養することで、初めて手放せるということもあるでしょう。解体業者のなかにも心を痛めている人はいるかもしれません。問題は「ものの価値」より「経済的価値」が優先される現在のあり方です。「変化」はやむを得ないとしても、その「変化のあり方」に「日本人」を取り戻す必要があるのではないでしょうか。
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自分自身のゴミの出し方扱い方を省みる機会になります。日々の掃除、年末の大掃除、そこから変えて行きたいと思います。
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破壊された苦しさ以上に、忘れ去られた悲しさなのでしょうか。誰かの心の中にそのいのちが生き続けていれば、形が消えることは自然の定めなのかもしれませんが、古民家に取り残され誰にも見向きもされず心も寄せられることの無くなってしまったそのいのちの物悲しさが伝わってきます。これは人も同じ。このような時でしかその感覚を思い出せなくなってしまっている今の生き方を見つめ直したいと思います。