昨日は韓国区立の保育所と大学付属の保育所を視察する機会がありました。とても丁寧な保育を展開され、スペースも十分、教材も豊富で思っていた以上に設備が充実していて驚きました。ベースとなる評価基準や保育課程もしっかりしており、そのうえで施設長の判断で方針が展開されていました。表面上ではほとんど日本と変わらないその施設に改めて何が異なるのかという大局の観点を考え直す好い機会になりました。
そもそも保育は誰のためにあるのか、そう考えてみると親のため、国のため。子どものためなど色々とその主としているものが変わることで保育方法や概念も変わっていくものです。それは必ず保育現場に現れます。子どものためにといいながら実際には保護者のためにというところがほとんどで、理想と建前を使い分けている施設が多いのも事実です。しかもそれがもっともらしい理由がつくと、明らかに大人と子どもとが分けて語られるようにも思います。
本来、江戸時代に寺小屋という仕組みがあったころは学校は子どものためにありました。子どもが主体的に異年齢の中で一緒に学びあっていきました。師友の関係の中で、それぞれ道徳を学び、能力を高めそれぞれの持ち味を活かしながらどのように生きていくかを学びあったといいます。そこの教育現場を歴史を紐解いて深めていると、子ども主体の教育や保育が行われていたことがわかります。
現在、子どもの権利条約の関係でそれを批准する国々は子どもを尊重していく必要があります。しかし実際には、何をもって尊重しているのかということを勘違いしているところも多いように思います。ただ子どものいうことを聞けばいいではなく、子どもと一緒になって成長しあっていくような場を用意していくことだと私は思います。
子どもの権利条約のモデルになったヤヌシュ・コルチャックは、「あるがままの子どもである権利」を言います。そして「子どもを理解することは、大人自身が自分をいかに理解するかである。子どもを愛するとは、自分自身をいかに愛せるかということ。人は誰しも大きな子どもだから。」と言います。大人と子どもとは一切分けてはおらず、如何に自分を理解して子どもたちを同じように愛していくか、自分自身になっていくことを述べています。
現在、保育現場にみられる姿はそういうものとは異なり大人と子どもがはっきりと分かれています。「とはいえ」という理由をつけながら大人になっていき子どもと自分を分けていく姿の先にあるがままである権利は成り立たないと私は思います。
保育の方法を語り合う前に、このあるがままである権利を如何に考えて保育を創りこんでいるか。「見守る」という考え方、いや保育という生き方の中にはここが明確な主柱になっているからブレずに原理原則から離れず世界標準を展開できるように私は思います。
引き続き、本来の子ども主体について韓国の保育事情がどうなっているのか視察から洞察してみたいと思います。
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「お客様主体」「相手主体」などと言いますが、「自分の立場や自社の都合を持ったまま」では、「相手」が主体にはなりません。同じように、「大人の立場や親の都合」から「子ども」のことを考えても、「子ども主体」とはならないでしょう。「主体」とは本当に難しいものです。しかし、この「主体」が定まらないことには何ごとも歪んでしまう可能性があります。常に「立場や都合」を放し一体となれるようでありたいと思います。
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方法は何通りにもあるにせよそこに子ども理解があるかどうか、子どもへの眼差しそれは見守ることだと思いますが、改めて大本にあることを感じます。社内で行っている様々な実践も自分自身を振り返り、初心を確認していくことに集約されると感じていますが、その眼差しが子ども理解そのものなのだと実感しました。第三者評価も必要なことだと思いますが、自己理解、内省は万国共通で大切なことなのだと思います。一日を振り返り味わうそのことを大切にしていきたいと思います。
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昨日の一円対話の振り返りの中で、聴福人としての振り返りから見えてきた課題と、参加者としての振り返りから見えてきた課題がありました。それぞれに向き合ってみると、聴福人の鏡写しが参加者でもあるけれど、同時に参加者の鏡写しが聴福人でもあるよねと分かれていないところを見ていく感覚に、何か大切なものがあるように一同感じました。だれもが「誰か任せ」にしない場、誰もが「何を大切にしていきたいか」を握り合っている場。それを作り出すのはやはり時間は掛かりますが理念の醸成なのだと感じます。お蔭様を忘れず、今日も分かれない一日を過ごしたいと思います。
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子どもにとってだけでなく、大人にとっても大切になるのは、その対象とするものが等しくある「子ども心」だからのように思います。子ども心を守ることは、子ども心を取り戻すことでもあり、大人になるというのは一体どういうことなのかと、突き詰めていくほどにそれは自分への探求にもなりえます。子ども主体とは何が主体であるのかが問われてくることを感じます。