聴福庵の奥庭には、キラキラと黄緑や緑に色づく苔と共に赤く染まった紅葉のヒラヒラと葉が舞う姿に季節の調和を感じます。まるで杜の中にいるような風景に心が穏やかになるのは、ここにも日本の原風景が息づいているからかもしれません。
今年は4月から、復古創新の実践を通して様々な日本文化と伝統に触れてきました。季節の巡りと共に、また月の満ち欠けと共に、あらゆる身近ないのちたちと共に生きていく暮らしは暮らしの本質を教えてくれます。自分だけで生きているような勘違いはすまいと、謙虚に御蔭様を感じながら生きていく姿から自然と一体になっている先祖たちの生きざまが観えてきます。
自然農も自然養鶏も、また発酵に関するすべても周囲の生き物と共生していくための心の在り方を修養し、その技術の用い方という姿勢を学びます。自然から学ぶというのは、私たちが傲慢にならないようにと戒めてきた人類の智慧かもしれません。
内外が自然と一体になって暮らす日本の伝統家屋は、確かに気密性が悪く隙間風が多く、冬は寒く、虫たちが自由に出入りしていますがそこには自然と共生していく中でしか感じない豊かさがあります。
私たちの思っている豊かさや贅沢さは、決して今の時代のようにお金を使い派手に真新しいものや自分を喜ばせるものばかりにあるのではなく、季節の変化を味わい、自分の人生の節目を自然に照らし、その存在の一部としての有難いご縁を味わうときに豊かさも贅沢も感じるのかもしれません。
朝に炭を鉄瓶で沸かす一杯のお茶が、心に沁み渡るのは心は常に自然と一体になっている証拠です。どんなに人工的に作り出した豊かさや贅沢が如何に豪勢であっても、自然が生み出した豊かさや贅沢には適いません。
自然の姿が美しく感じるように、季節の変化を美しく感じる自分の心と観応することこそが感性を磨き透過していくことかもしれません。自然と渾然一体になったときこそ、心身一如、あらゆるものが混ざり合い透明になります。透明になるとき、自然の偉大さに感動するのです。
引き続き、暮らしの再生を実践しつつ新たな境地を体得して子どもたちに温故知新した今を譲っていきたいと思います。
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上から眺めるのもいいのですが苔の高さから眺めると、森に迷い込んだようで、そして一本一本の逞しさを感じます。自然を感じられる豊かさはせわしい中では感じもしません。聴福庵にいる時とまるで別世界にいるようで、それでいて自分自身が忙しさを言い訳にして自然を見ていないのだと感じます。どこにいたとしても感謝を大切にする生き方を大事にしてきたいと思います。
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風が通る家の中では、お湯を沸かすだけでも、季節の変化を感じることができます。暖房も、エアコンよりストーブの方が重宝します。わが家には、未だに「火鉢」がありますが、部屋を温めるというより、人を温める道具であることに、時代を感じています。 昨日は二十四節気の「小雪」。早くも、車のタイヤの履き換えや火鉢を出す季節が近づいているようです。
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虫が部屋に入って来た時に自然と共生している豊かさを感じるのはまだまだ難しいですが、虫の音にあたたかさを感じたことは何度もあります。物事の受け取り方も、自然と共生している謙虚な姿があるからこそ、それを福として受け入れることが出来る訳で、本末が入れ替わることはないのかもしれません。生き方・暮らし方から見直していきたいと思います。
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夏の海に舟を出すのも心地よいですが、冬の海に出す舟はまた、格別です。風も海も、何もかもがむき出しになり、急激に自然との距離が縮まります。それは冬になるほどに自然以外への欲が海に対して消えていくからかもしれません。目に前にある自然を見る心よりも、目の前にある自分の欲を見る心が強いほどに、自然を感じる力は弱まるのだと感じます。それは山へ登る時も同じように感じます。何のために生きるのか。そこには沢山の誘惑や欲がありますが、日々の禊が改めて自然と一体となるために肝心なのだと感じています。