先日、伝統のある京町家で本物の美しい和室を体験する機会がありました。お昼過ぎ、申の刻の陰翳礼讃を肌で感じ、凛としたその空間の厳しさと包み込むような和かな暗闇に心寛ぎました。雪見障子から眺める奥庭は、四季折々の色々に彩られ季節が室内へ透過され自然と一体になって静寂に入っていきました。
その和室のおもてなしをする主人の真心が感じられ、今までその家がどのような家だったか、どのような暮らしを営んできたのかがわかります。自分の内面の深いところを観てもらうようで、その主人の間にはその家代々の大切にしてきた生き方が刻々とその空間に深く沈んでいます。
一言でいえばその媚びていない空間は、あまりにも自然体でありあるがままの心を開いて受け入れてくれている美しさがありました。この美しさとは一体何か、自然とは何かということです。
媚びるというのは、どこかよく見せようとか、よく見られないとか誰かを気にしている状態です。その状態は自然ではなく、媚びているといってもいいと思います。媚びているものはどこか、凛としたものとはかけ離れ、心を閉ざしている雰囲気があります。
しかし媚びない姿はこの反対で、自分らしくいて自信にあふれ、自然体であり心は常に万物の世界に開かれていてどんなことも一円融合に受け容れる寛さがあります。一言でいえば媚びないというのは、生き方を貫いてきた姿ということです。
どんなに時代が変わっても、どんなに環境が変化しても、どのような生き方をするかは自分自身で決めることができます。流されて自分を持たず、大衆に迎合して自分を失ってしまうことは周りを見ていればすぐにわかります。しかしそんな中でも、最近世界遺産に指定された富岡製糸場のように「売らない、貸さない、壊さない」と信念を貫き媚びない姿を遺したことで今でもその価値は燦然と輝いています。
大事なものを守り続けるというのは、主人の信念が決めるものです。どんなに好条件でうまい話があったとしても、決して本質を見失うまいと覚悟を決めた姿にはその人物の美学があります。
この美学を貫くとき、媚びない姿が顕れ同時に本物の姿、自然体も顕れるのです。
自然が美しいのはなぜか、それはそのままあるがままであるからです。人間はもっと自然に習い、あるがままの美しさ、自然体の素晴らしさを学び直す必要を感じています。自分らしいことを諦め、ただ周りもそうだからと大衆に流されて大切なものをゴミくずのように捨ててしまっているうちになくしてしまうものは何よりも大切な自分自身の御魂かもしれません。
どんな時代であっても、大義を貫きその大義に生きようとする生き方には本物の美しさがあります。私が尊敬しているその家は、有り難いことにその凛とした佇まいのままに京都に遺っています。そんな家のご主人と時代を超えてお会いできる一期一会は、私の人生にとってはかけがえのない勿体ない邂逅です。
また引き続き、日本人としての生き方の御指南をいただくためにもその空間に今後ともご挨拶に伺いたいと思います。
ありがとうございました。
コメント
自分が想像する以上の世界が拡がっていると思うと、どんな世界なのだろうとその美しさを感じたくなります。生き方は目に見えないようで、確かに存在しこれまでもそこに憧れ多くの人が集まってくる、それが同志なのだと感じました。一体何屋なの!?と驚かれもしますが、貫きたい生き方を大事にしていきたいと思います。
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「そうしたくても、なかなかそうできないこと」がたくさんあります。そんな状況のなかで、「自分の信念」に基づいて生き、「自分の美学」を貫くのは並大抵のことではありません。「暮らし」にも日々の戦いはありますが、アウェイの環境のなかで「暮らし続ける」には、相当の覚悟が必要です。「だからやめるのか、それでもやるのか?!」いつもこの「問い」と格闘していたいと思います。
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昨日、面接をスカイプで行った時、大切なのはあるがままの初心や目指したい事が同じである事なのであって、価値観や考え方が違う事は一番の問題ではないと感じました。同じく一家を支える決心を持つ仲間がいる事がどれ程稀有で有難い事なのかと感じます。存在があるがままである事を大切にして行きたいと思います。
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昨日は人の生き方の奥深さを知りました。観えているもの観えていないもの表裏一体、さまざまなものが混ざり合う中で丸ごと全てを受け入れるというの簡単にはいきません。それが自然だと見えていないのは、それが自然体でないのではなく、自分の視点の方が自然ではないのだと、自分の心がどうなっているのかを確かめたいと思います。