美しい精神というものがあります。日本の伝統文化の中で、遺っている職人やかかわった人物たちの生きざまの中にはそれがたくさん垣間見ることができます。自己の自己に対する誠実さというものは、その精神に美しさを感じるものです。
吉田兼好『徒然草』に「まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり」とあります。
このまことの人とは、賢愚得失などに左右されず自己に対してただ誠実な人であるということです。
他に真田幸村や上杉謙信、直江兼続、また松尾芭蕉、吉田松陰のように名を遺っている人物たちもまた利よりも義に生きた「まことの人」です。この義とは、私にとっては「精神」を重んじたということです。そしてこの精神とは何か、それは自他に対して誠実に生き切ったという真心の生き方を貫いたということです。
美しい精神というものは、古来より日本人がとても大切に尊んできた生き方です。自分の定められた生に対してその生を正しく全うする。つまりは、正直でありつづけて実直に生き切るということです。これを義と言います。その義を掲げて世の中に一本主柱を立てることを大義とも言います。
大義がなくなってしまえば、簡単に人間は精神が堕落し自分に妥協し他人に委ね、義を貫くことができずに自他に不誠実な生涯を送ることになります。誰が何と言おうと、自分自身が真心から誠実に取り組みたいと決心して覚悟したところを動かさないというところに美しい精神が宿ります。
仏陀は、その遺言において自燈明法燈明と言いました。これは私の解釈では他人ではなく自己を拠り所とせよ、そして誰が言うではなく心を拠り所とせよと言いました。つまりは自己を信じよということですが、そのためには心を磨き精神を高め続けて本物の正しい心をつかまなくてはなりません。
古来の先祖たちは、日ごろから簡素でシンプルな暮らしを通して常に自らの心に内省し、本来の心を見失わないように初心を守り理念を優先して歩んできたとも言えます。そしてそれを貫くために義を誓い、義に生きて生涯を歩んで道を切り拓いて子孫へと正道を譲ってきたのです。
美しい精神がなくなるということは、日本人らしさもまたなくなっていくということです。
自分のできることは少ないとしても、自分自身に対してどれだけ誠実であるかどうかは外界との闘いではなく、自分自身にどれだけ誠実であったという日々の修行と精進です。
引き続き、心身一如、清濁一如、透明な感性を磨きあげて日本の心、美しい精神に近づけるように精進していきたいと思います。
コメント
「自分自身に対して誠実である」ということは、ほんとうに難しいことです。ちょっとしたことに誘惑され、安易に妥協し、いつも同じところで甘えが出て逃げようとしてしまいます。「凡事徹底」と言いますが、事の大小ではなく、目の前の一つひとつを丁寧に生きられるかどうか、その丁寧さに美しさがあるのではないでしょうか。「結果」に一喜一憂せず、「自分との約束」をひたすら守り続ける、そういう努力を続けたいと思います。
コメント
悪名として名を遺したのではなく、日本人のお手本として生き方が神社となり祀られているのを見聞きすると、その当時のその生き方を後世へ語り継ごうと行動していることが、誠の精神を受け継いできていることを物語っているようです。
「自分のできることは少ないとしても、自分自身に対してどれだけ誠実であるかどうかは外界との闘いではなく、自分自身にどれだけ誠実であったという日々の修行と精進です。」本文そのままですが日々精進していきたいと思います。
コメント
今は「義」というものに気づくにはあまりにも余計なものを多く纏い過ぎている時代のように思います。義を貫くというのは「ねばならない」に縛られた訳では決してなく、むしろ棄て切った末に観えてきた純粋すぎる程の心だったのではないかと思うと、美しい精神とは飾りなく余計なものを全て省き磨き続ける中で取り戻せる本来の魂のように感じます。加える事ではなく省く事に成長の原点はあるのかもしれません。
コメント
昔、自分の現状に対して、いつもこれは何々があったから、、、本当はこんなはずでは、、、本来の自分ならそうはしない、、、
様々な理由をつけては正当化し続けるうちに、感覚が麻痺し、当たり前になりました。自分すら見つめても歪んで甘やかしました。入社数年を過ぎてからそれが始まり、生き方に昇華され、沢山の苦しみを味わい、抜け出すと決めてからもう7年近くになりますが、今もまだ改革の最中です。言い訳しないで自分を見つめることはできる様になっても、実際の変化はまだまだです。変化に意味を自分でつけずに変化の道を歩みたいと思います。