佇まいと庵

佇まいということを深めていると「場」ということがどのようなものであるのかを実感します。この佇まいと場とは必ず一体になるものであり、場があるから佇まいが存在します。空間の美というものは、この場の関係性によって仕上がり、そのつながりの中で私たちがしっくりと来ることで実感することができるものです。

この佇まいについて少し書いてみます。

例えば、私は和室や庭を構成するときその場に何を置けばしっくり来るのかを観ることにしています。明らかに、その物と物とがつながり調和するときそこには確かな佇まいができてきます。

この佇まいの意味は、大辞林には( 立っているようす。また、そこにあるもののありさま。そのもののかもし出す雰囲気。「家並みの佇まい」「庭園の落ちついた佇まい」 身を置くところ。暮らし方。また、なりわい)とあります。

この佇まいというものは、その本人のことではなく場が主体になっているのがわかります。つまりは、場というものはその関係性や共鳴性、共感性や響き合いなどといった物と物、物と人、その空間の中に何が発生したかという妙を観ているのです。そしてこの佇まいが落ち着いてくると、自ずから空間の中に余韻が出てきます。

今、古民家再生をしている庭園然り、和室然り、しっくり来るまでには様々なご縁を活かしきっていかなければそれは顕れません。それは人とのご縁は当然のこと、物とのご縁、そのほか、時間とのご縁、物語とのご縁、心とのご縁、導かれるご縁、神仏の御縁など様々なご縁を活かしきったときにこそ佇まいは顕現します。

まるではじめからそれがそこにあったかのようなもの、またお互いに一緒に一体になって自然になるようなもの、そのしっくりとくる場には確かな佇まいがあるのです。その佇まいは、すべてのご縁に活かされた場であり、その空間にはご縁が凝縮されて永遠にいのちが生き続けていきます。その空間に何を入れて、何を遺すか、そこには子々孫々まで真心を通じさせ、その場において伝承も継承も伝道も教育も行われていくのです。

なぜ日本家屋は場によって教育を行えるか、そこには佇まいがあるからです。その佇まいを活かすのは、その場で暮らした日本的人物、分を弁え謙虚に生きた生きざまと一体になって残存するのでしょう。私にとっての日本家屋はの場は庵です。

庵とは昔ながらの質素な佇まいの家のことを言います。「庵」は古くは「いほり」と読み、その古形である「いほ(庵)」が動詞「いほる」を生じ、その連用形「いほり」が名詞化したものです。そしてかつて人は岩穴に住んだことから「いほ」は「岩」に通じるともいわれています。

一家が暮らすその庵の中には、そこに暮らした人々の祈りや願い、そして信念や理念があります。そういうものをどれだけ子どもたちに譲っていくかは、場を主体にしてどれだけ学び磨き上げたかという一人一人の生き方が決めます。

日々の場は、すべて自分が創り出しているという自覚を忘れずに丁寧にじっくりと場を練り上げていきたいと思います。

 

  1. コメント

    ジャッキアップしてからの聴福庵は、何となくどっしりとした安心感を感じます。支柱がしっかりしたことで次から次へと滲み出る雰囲気は、単に目に見える変化だけでなく、自分自身の心の拠り所にもなっています。まだ約半年ですが、されど半年。聴福庵は声には出しませんが語らずして語り、自分もあの場から学んでいる一人なのだと感じます。聴福庵から学んでいることを形にして発信していきたいと思います。

  2. コメント

    人には、相性というものがありますが、対話を深めることによって、お互いに心地よい距離感がわかってきます。同じように、人と物、物と物にも相性があり、対話によって、お互いの居場所が決まってくるのではないでしょうか。したがって、どれだけ深い対話できるかが大事です。相手の語る思いや願い、祈りにしっかり耳を傾けられるようでありたいと思います。

  3. コメント

    マインドフルネスを調べてみると、五感を使って感じられるものに意識を移し、イマココに集中し、囚われから脱していくとありました。場を使い、自らの雑念の存在に気づくという手法の元は東洋思想のようです。聴福庵で感じる場を次回、体験して見たいと思います。

  4. コメント

    「佇まい」という言葉は今まであまり馴染みがありませんでした。その佇まいがどう観えるかは自分自身の心次第なのだと思いますが、目で見えるよりも感覚で感じ取る方が遙かに残りやすいことを実感しています。その場から何をいただいているのか、場所を問わず、場に遺るものを感じ取っていきたいと思います。

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