和ろうそくの心

日本の伝統に和ろうそくというものがあります。和ろうそくが持つ「あかり」は懐かしく今でも暗闇に照らせば心が和みます。このあかりは60万年前から使われていたといわれますが、日本で和ろうそくがはじまったのは奈良時代に中国からはちみつを用いた「蜜ろう」というものが入ってきたことからです。その後、平安時代には松脂を使ったろうそくが開発され、その後室町時代から現在まで櫨(はぜ)の実を使ったものが和ろうそくの代表となっています。

手作りでしかつくれず原料も天然のものを利用した和ろうそくは高級品であり、庶民には手がなかなか出せず菜種油を使う家庭が多かったといいます。しかし明治時代になると、洋ろうそくが急速に普及し各家庭にろうそくが広がりました。今では電気が普及しほとんどろうそくは日常の生活から消えてしまっていますが、改めて和ろうそくの価値が見直されてきているとも言います。

和ろうそくと洋ろうそくの違いは、同じろうそくと言っても原料を含めてすべてが異なります。例えば、和ろうそくは世界の中で日本にしか存在しない天然の櫨の実の原料に対し、洋ろうそくは石油系のパラフィンという原料です。ろうそくの芯も、い草の髄から取れる燈芯を使うのに対して洋ろうそくは糸を使います。最も異なるのは、和ろうそくは手作りで一本一本作るのに対して反対に洋ろうそくは機械で大量生産することができます。そこからわかるように金額も和ろうそくは高価で洋ろうそくは安価です。

肝心なあかりはどうかと言えば、灯せばすぐにわかりますが暗闇を包み込むようなあかり、そして情緒がある揺らぎ、また炎の落ち着いた柔らかい様、そのほのかに燃えていくときの優しい音、和紙の燻る薫り、そのどれもが和の風情を醸し出します。

いつも私はこの和ろうそくを観るとき、いのちを完全に燃焼し尽くしてあかりの余韻を空間に遺すこの存在に尊敬の念を覚えます。

同じ燃えるにしても燃え方があり、燃え様があります。これが翻っていのちにたとえると、生き方と生き様です。和ろうそくには、日本人としての連綿と繰り返しつながり結ばれてきた姿があるように感じて灯すと先祖に触れる気がして懐かしくいつも心が揺さぶられ深く感動するのです。

今は時間にあくせくし忙しくて心をなくして自分を見失い、また魂が傷ついている人が多くいるからこそ、私はこの「和ろうそく」の火を用いて人々の心を癒したいと思うのです。

聴福庵は炭を用いているところばかりが注目されますが私の中では「火」が中心であるということを重んじているのです。暮らしの中の火は、いのちそのものですからそのいのちをどのように扱うか、どのようにつつみこみそのものを感じるかは火の姿によって物語るを読めばいいのです。火はいのちとの対話のつなぎ役なのです。

和ろうそくを用い、子どもたちの心にいのちの火を包み癒し灯し続けられるように実践を続けて深めていきたいと思います。

 

 

  1. コメント

    ろうそくのゆらゆら揺れる炎を眺めているとぼーっとしてしまいます。そして、ろうそくの炎はいのちに例えられることがありますが、力強く燃えていたり、か細かったりゆらゆら揺れる様は本当に人生のようです。風に揺られても持ちこたえる意志や揺られることも任せ楽しむ余裕をもって、心を灯し周囲を灯していけるよう実践を続けていきたいと思います。

  2. コメント

    「和ろうそく」は、法事などの特別な時にしか使いませんが、「洋ローソク」に比べると、炎がとても神秘的で、そのゆらぎに不思議な魅力があります。「灯り」ではありますが、「明るさ」というより、自分の「内面を照らす」のに最適かもしれません。今では、仏壇等以外では、ほとんど使いませんが、波動を整えて「心」を見つめる方法として、見直してみる必要があるかもしれません。

  3. コメント

    聴福庵で和ろうそくの写真を思わず撮ってしまった時のことを思い出しました。照明と言えば今は電気ですが、和ろうそくのあの暖かな灯りに命のようなものを感じ、感動しました。ゆらぎは一緒にその場にいることを感じました。和ろうそくを自宅でも子どもと一緒に体験してみたいと思います。

  4. コメント

    群言堂にお伺いした際に出逢った「無邪く庵」はとても心に残りました。聴福庵でもそうでしたが、あの和ろうそくの明かりの中で心を澄ませていると、その灯と同じように自分自身も一つの魂という炎としてそこに存在するかのようで、場に溶け込んでいくような安らぎがありました。モノではないものを観ていきたいと思います。

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