日々に鉄瓶でお茶を沸かして飲んでいる炭実践をしている中で火について色々と深まってきています。火といっても一概に火とは呼べず、蝋燭の火、ガスの火、灯油の火、薪の火、炭の火、炭の火の中でも木炭、石炭、備長炭、竹炭などどの火も同じ火は一切ありません。さらに言うならその時の湿度や空気、季節やタイミングなどでも火は変わってきます。
火と一括りにして火と呼びますがこのような感覚が人間本来のセンスを鈍らせているようにも思います。同様に、空も水も同じものは一つもありません。無限に組み合わせがあり、同じものがないのに人はそれをただの空と呼び、それを水と呼びます。
頭や知識は、その物体を認識するために文字や言葉にして分類分けましたが実際は分類分けなどがまったく意味をなさないのが自然なのです。
火はその揺らぎ熱さ、温度、見た目、範囲、容、光、燃焼具合、燃える素材、燃える環境によってその火の姿が変わります。例えば、ガスの火はとても強く炭の人はまったく異なり近づくとトゲトゲします。石油の火はもっと強くトゲトゲしてまるで尖った岩山のように差し込んできます。
それとは逆に天然の植物油や、もしくは炭などはほんわかする軟らかく弱い火が出ています。特に備長炭などは周りを包み込んでくるような春の日差しのようなぬくもりが出てきます。
人間は感覚を研ぎ澄ませていけば、火は単なる火ではなくなり同様に水も空も単なる水や空ではなくなるということです。どれくらいのセンスで日常を過ごしているか、今は頭でっかちになってやれスケジュール管理だの、やれ衛生管理など、栄養管理など、人間の思いどおりにするように先ほどの分類された知識をフル稼働していますが本来の自然科学というものはそのセンスが前提にあっての科学であったはずです。人間主導の科学は理に適うこともなく本来の道理から反してしまい本末転倒です。
センスなき科学というものは、どこか限られた狭い世界のみで通用する知識のように私は感じます。センスは自然ですから、センスのセンサーを高めていくことで自ずから自然の科学は身につくように思います。
引き続き、五感、六感、いやすべての感覚を研ぎ澄ませ子どもたちのために今を見つめていきたいと思います。
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言葉で説明できない程度の理解では「知識」と呼ばれません。しかし、この「言葉にして理解する」という態度が、「分かった気になる」ことにつながっています。これまでは、「分類」と「細分化」によって理解を深めるという社会でしたが、分けることをやめて「そのまま」を理解する社会に戻さなくてはいけません。「説明の世界」を離れ、「安易に言葉にしないで、そのものと向き合い、一体になる」そんな機会を増やしていきたいものです。
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空を眺めていると自然が作り出した芸術のようでいつまでも見ていられます。流れる雲も移り変わり、空の色も濃くも淡くも陽に染まったり、そこに気づくのは大人よりも子どもだったりします。見慣れてしまうとそこに感動を失いますが初めて見たものに感動し驚く姿にかえって感動します。自然を丸ごと感じられるその世界観に寄り添っていけるよう、相手に思いを寄せていきたいと思います。
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一円対話の席順テーマで「暑がり順」を設けた際、人によって「暑い」の基準が違ったり、ミマモリングソフトのチェックで「十分」とはどの程度のことを言うかは人それぞれであるからこそ擦り合わせが必要なことを感じますが、自分自身も自分の中にある基準でものを知り、観て、感じているのかもしれません。もっとそのもの自体と対話していけるよう心を働かせていきたいと思います。
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季節についても、何月何日で、二十四節でいうと何々で、七十二候だと何々だから今頃はこんな季節になるんだろうと感じてしまう自分と、そもそも身の廻りの季節から今は七十二候だと何にあたり、二十四節だと、、、と感じる方とでは自然に対するセンスがまた違ってくるのかもしれません。季節と一括りにしない為にも、先入観なく目の前の物事を観察して行きたいと思います。