学問には時務学と人間学というものがあります。これは人間が成長していく上で両輪であるとされます。時務学は末学といい、人間学は本学といいます。この本末をしっかりと調和させていくことが今を生きることになります。
例えば、どんなに新しい時代の道具や仕組みなどもその人物の人間力によって左右されます。これはIT技術などもそうですが、進歩していく技術は時が経てば発展していきます。しかしそれに対して道徳といった人間の進化が発達していかなければその技術は人間や自然を破壊するように使われるかもしれません。
本と末というのは、本ははじまり末は終わりという意味です。そしてこれが入れ替わってしまうことが本末転倒という諺にも出てきます。例えば、種があって花が咲くのであって、花があって種ができるわけではない。また幹があって枝葉ができるわけで枝葉があって幹があるわけではないということ。
これを人間に例えれば、人間が徳があってこそはじめて技術が進歩していくわけで技術が進歩することで人間ができてくるわけではないということです。
人間学を学び精進しながら本当の技術を伝道していく、これは私たちの会社のウェブも同じですが単に技術だけをやるのではなく、人間学を真摯に学ぶ人がどのような技術を使っていけばいいかを実践して示していくのです。こういう使い方が本来の姿であるということや、こういう事例は人々の徳を高めいくというように人間が進化していくのを見守っていくのです。
そのためにも、何が根幹であり何が枝葉であるかを決して忘れないことです。それは言い換えれば「何のためにやっているか」という本質は決して忘れずに「今」の技術を活用していくことです。
本質がなくなればその文字通り「本」が消失します。するとうわっつらの見せかけばかりに終始していつまでも本質に立ち返ることもなくなります。何のためにかを考える力は魂の力でもあるし、心胆力でもあります。常に理念に沿って初心を忘れずに自分が場数を踏んで働いているのなら、それは本から離れることはありません。その上で日々の日常業務などができる人、それを今の時代に合わせた仕事にしていける人物が本末樹立させていく人です。
しっかりと大地に根をはり、天に向かって大きく豊かに成長していくためにも本末樹立を大切に実践を積み重ねていきたいと思います。
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技術進展の早いウェブをなぜ行い、そこに実践が伴うのかようやく見えてきました。そして、保育することとウェブへの苦手意識からくる抵抗感との関係も、何のために行っているかを考えると見えてくるものがあります。同じ技術でも使う人が変われば全く異なる使い方をすると思うとそこに人間力が現れるのだと感じます。気づきを得たここからが勝負どころです。一瞬で泡と消えぬよう形作れるよう実践を積んでいきたいと思います。
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よく切れる包丁は、魚を美味しくさばくことができますが、凶器に使われてしまうこともあります。これは、「包丁の販売」の問題ではなく、「使う人の認識」の問題です。あらゆる道具や様々な技術についても同じことが言えます。人間を信用せず供給を止めるか、教育による人間の判断力を信じるか?!「どこまで進歩していいか」は、「人間がその使い方をどれだけ自制できるか」にかかっているでしょう。誘惑に負けないよう、しっかり学び精進しておきたいと思います。
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人間力の向上は目に見えづらく、技術の向上は目に見えやすいからこそ、技術の方がもてはやされるように思えます。新しい技術を知り、活用していくことは面白いことではありますが、そこに呑まれないということが大切であり、そのためにも人間力は欠かせないということでもあるように思います。力も持ったがために、その力を無駄にふるいたくなるようなことがないように本末を定めて用いたいと思います。
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現場に出た後に、本質とはなにか、出し切っただろうか、真心だっただろうか、古くないか、と振り返ると、本質を分かることはありませんが、自分自身の状態には気づくことがあります。感謝を忘れていたり、挑戦していなかったり、優しくなかったり。その心なくして、技術や知識を使っては、迷わせてしまうのだと感じます。本末を間違わぬよう、心を働かせて行きたいと思います。