二宮尊徳の道を深めていると如何に天地の経文を読み解き、その自然から学びそれを人類の救済のために活かそうとしたかという姿に畏敬の念を感じます。人にして人にあらず、まさに自然と一体になって実地実行の真心を盡す姿勢には聖人の気配を感じます。
私が尊敬する生き方もまたこの野聖であり、天地自然そのものと対話し本来の道を求め極めていくことです。その足跡が遺っていることに、有り難さと誇りを感じます。二宮尊徳は至誠と実行ということを何よりも重んじました。
「人生れて学ばざれば生れざると同じ 学んで道を知らざれば学ばざると同じ 知って行うこと能はざれば知らざると同じ 故に人たるもの必ず学ばざるべからず 学をなすもの必ず道を知らざるべからず 道を知るもの必ず行はざるべからず」
人は生まれても深めようとしないのでは生まれていないのと同じであり、深めても実践しなければ深めていないのと同じ。わかったからといっても、それを活かそうとしないようでは分かった気になっているだけで何の役にも立たないから人は必ず深めたことを実行しなければならない。そうやって真心で実行するものは道がわからないはずはない、だからこそ道が分かる人は必ず実地実行を已まないのである。
深めて実行すること、それを活かすこと、常にそれが学問であり道であるというのはそれが天地自然の理だからです。間違った学問は知識だけを増やし認識だけができても現実が何も変わるわけではありません。自分が知って気づいたのならば、それをすぐに行動に移して世の中に一つでも貢献していくために実行するのが本物の学問なのです。
天地の経文は嘘がなく、自然は素直そのものですから如何に謙虚にそこから学ぶかはその人の生き方に由るのです。
西郷隆盛は二宮尊徳を評して「尊徳に師なし。彼れは全てを活用して学んだのであって、故に彼の為したる事績は尽く活きたる学問である。いわゆる学問を活かして実際に応用したる人なり」といいました。
二宮尊徳にとっての師は、道そのものであり自然に発生するご縁から学びそれを活かしたということです。だからこそ二宮尊徳の遺したものはすべて活きた学問になっている。それを応用して人々を救済しているからこそ二宮尊徳は野聖なのです。
来たものを選ばずに活かそうとしても道はまだまだ遠大です。引き続き、日々の実地実行を怠らず精進していこうと思います。
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「生命のあり方」の指標となるものが、最初から環境として用意されているというところに、大きな大きな慈愛を感じます。しかし、そこに経を見つけ、それを師として「人としての生き方」を正そうとする人の偉大さにも驚きます。そして、日本にも、二宮尊徳翁や松下幸之助翁のように、「天地自然」を師として「その理」を学ぶという生き方を教えてくれている存在があることは、ほんとうに有難いことです。無限に遠く、高く、深い道ですが、中道を目指し、一歩一歩仲間とともに努力精進できることは嬉しいことです。
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「至誠と実行」を鏡に振り返ると分かった気、やった気になっていないかと身が引き締まります。気づいたことを活かすことが生き方に現れると思うとさらに感じる者があります。先人の言葉から言動を振り返り本物の学びとしていけるよう精進していきたいと思います。
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気が引き締まるというか、背筋が凍るような思いです。普段、ズレ始めると家族や家の草花や魚たちに異変が起き始めますか、その前兆や、ズレをもう一度見返してみると、自分の心のありように曇りを見つけました。傾聴、共感、受容、感謝の心が薄れるのは日々に行なっていないからだと感じます。切り替えていきたいと思います。
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いつもお世話になっている藤﨑農場さんや、先日の畳作りでご縁のあった方々など、自然と共に生きていると感じられるお姿からは、何はわからなくてもその人柄から伝わってくるものがありました。徳豊酬の実践もまた恩恵を受けているものなのだということを忘れず、原点を見失わずに今に注力していきたいと思います。