心の潤い~暮らしの中の仕事~

昨日、パートナーとして一緒に理念に取り組んでいる熊本の保育園に訪問する機会がありました。昨年のことを振り返りつつお互いの理念の実践を確認しあうことができました。

ここの保育園では「子どもたちの心のふるさと」を理念に掲げていますから新年から子どもたちと一緒に餅つきや門松作り、また獅子舞、また手漉き和紙を用いた年賀はがきの作成など数々の実践を楽しそうに行っていました。着実に目的に向かって一つ一つの実践を全員で積み重ねていく様子に大変嬉しくもあり、有難い気持ちになりました。

最近では、餅つきは不衛生だと禁止になり、除夜の鐘はうるさいからと昼間になり、歩きながら本を読むのは危ないから二宮金次郎の像を座らせたり撤去したり、お祭りは宗教勧誘だからと中止になり、祭祀や神事は人間都合で変更され、挨拶は不審者だから気を付けろと教え、その他言い出せばキリがないほど本質的ではない改造が行われ、様々なかつてからの日本の文化もまるで価値がないものに変わってきています。

かつては祖父母と一緒に暮らしていく中で子どもの頃よりその後ろ姿の実践から自然に学んでいました。毎朝早起きをして仏壇や神棚を拝み、掃き掃除や拭き掃除をして挨拶をし、家族で味噌汁とご飯を一緒に食べていました。感謝することを第一に、素直に謙虚に自然に暮らしを通して私たちは日本文化を伝承されていきましたが今ではその暮らしの伝承があちこちで途切れてきています。

子どもたちが暮らしから遠ざかるのは、その周囲の大人たちが暮らしを豊かに味わうことを忘れてしまってきたからです。日々にお金ばかりを気にして、時間に管理されギリギリいっぱいに結果に終始し膨大な作業に没頭してその本当の味わい深さや豊かさを感じる余裕が失われてきているからです。

それは単に仕事量を減らせばいいのではなく、本来の暮らしをしなければ取り戻すことはできないと私は思います。その暮らしとは、日本の生活文化のことです。私たちカグヤでは日本の伝統芸能や伝統文化を深めて実践するクルーたちが増えたことで日々の生活に「潤い」が出てきています。その潤いは「心の潤い」で、日々の生活の中に喜びや仕合せ、楽しさや感謝がどんどん増えていく豊かさが感じられていくということです。

この潤いがある仕事というのは、人々の心を豊かにしていく仕事になっていきます。人は何のために仕事のするのか、人類は日々に仕合せに暮らすために今まで苦労しても楽しく仕事をして生き残ってきたはずです。だからこそこの生活や暮らしの潤いが増えていくということは、それだけ真に皆で豊かな社會を創造したということになります。

取り組んでいる室礼の実践一つをとっても、日々の小さく大きな豊かさを感謝と共に暮らしに飾ります。するとその飾る室礼を見た人たちに心の潤いが伝わりよりお互いに心が瑞々しく若返っていくのです。

忙しい忙しいと自分のことばかりに忙殺されていく中で本当に失っているものは暮らしの豊かさの方なのです。だからこそ私は子どもたちが大人になった時に、暮らしのない世の中にならないようにと祈り願い、子どもたちの周囲にいる大人たちへと実践を弘めるために学び直し新たな仕事を開発しているのです。

もちろん仕事か暮らしかというわけではなく、暮らしの中に仕事があるのだから豊かな人が仕事をしていくと潤いがある質の高い仕事になるのです。その日々の心を籠めた丁寧で丹精を入れたものが本来の仕事の意味になり大切なお仕事になると思っているのです。

玄米クッキーをつくって持っていくご挨拶も、お手紙を書いてお渡しする写真も、手間暇かけて漬けたお漬物をお贈りするのもすべてはこの「心の潤い」を結びお届けするためです。

引き続き、何が大切で何を守るかの優先順位を間違えないように忙しくても忙しくしない、忙しくても豊かさは身近にあるように心を磨き、実践を深め、ニコニコ顔で命がけの真剣勝負の日々を楽しんでいきたいと思います。

  1. コメント

    「人を信じる社会と疑う社会」、「ものごとを肯定的に見る社会と否定的に見る社会」では、その仕組みがまったく違います。それは、「安心して見守る社会」と「不安で見張る社会」に分かれていきます。結局、「不信」「否定」「不安」ということ自体が、「豊かでない」ということです。抑止力としては必要なものもありますが、できるだけ「不信の仕組み」をなくしていく必要があるのではないでしょうか。

  2. コメント

    聴福庵での体験は新鮮で面白く、ただそれは懐かしいのではなく、懐かしんでいるのではないかと思っています。失いつつある中で気づいた尊さや豊かさ、このご時世だからこそなおさら共感し応援され光って見えるように感じます。人間らしい働き方や暮らしを提案していけるよう、一つ一つを大事にしていきたいと思います。

  3. コメント

    聴福庵で初めて行った味噌作り。その昔からの習慣が本来のアクティビティの要素を持っていたことを感じると、アクティビティを開発していること自体がそもそもではないような不思議な感覚を得ます。栄養をサプリで摂るような、確かに栄養は摂取できても本来のものとはちょっと違う、そんな感覚です。勿論それも大事ではありますが、子どもたちの為に本来取り戻すべきものは何かということを自問しながら歩んでいきたいと思います。

  4. コメント

    暮らしとは日常だからこそ、聴福庵での体験で終わらせては暮らしは変わらないのだと感じます。聴福庵で学んだり体験したことを自分の暮らしにどう生かしていくのか。そこに学んだ意味があるのだと感じます。仕事と暮らしを分けないことの意味を、暮らしを通して学べるように、体験を体験で留めず、知識を知識で留めないようにしていきたいと思います。

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