人が自信を持つというのは自発的に主体的に自ら何かを行ったときのみ得られるものです。他人からやらされたり、させられていると思ってやっていたりしても自信が持てないことはすぐにわかります。自分の力とは何か、それは自分の中の情熱を使って取り組むことですから人からの熱を利用していつもやっていたらそのうち自分の力を出さなくてもできることに慣れてしまうものです。
炭の実践をしていたらすぐにわかるのですが、炭には自燃性、可燃性、他燃性、不燃性があります。自燃性は、こちらがなにもしなくても少し火が入れば自ら燃え続けて燃え尽きるまできれいに燃え続けることができます。よく良質な炭というのは素直で密度の濃いこういう炭のことを言います。そして可燃性は、すぐに燃えはするけれどこちらが息を吹きかけなければ燃え続けることができなくなっていきます。その次の他燃性は、周りに燃えている炭がありその燃え続けている炭の火力があれば燃えることができるというものです。しかし燃えている炭から離してしまうとすぐに消えてしまいます。最後は不燃性、これはもう何をしても燃えることがありませんし無理に燃やしても周りの炭の力を全部奪い取ってしまいます。
これは炭だけのことを言っているのではなく、人間でも同じことが言えるといいます。人間には心に「熱」があります。それは熱量、情熱とも言います。この情熱をどれだけ燃やすことができるか。これはいのちを燃やすことも同じです。自分の決めた生き方を貫き、燃え尽きるまで一期一会に一日一生を生き切っていく。そういう自然性の人は周りの人たちを燃やしていきます。
そこで何よりも大切なのはこの自然性、つまりは自発性がいるということです。どんなに最初の炭が自然性があったとしても、一本の炭だけが燃えても周りがまったく燃えなければお湯を沸かすこともできません。だからこそみんながそれぞれに自分の炭を自分で燃やしてくれるからこそその火が集まって大きな熱量を発揮して物事を変えていくのです。
そのためには自分から動いて自分から燃えて自分から自発的に進んで様々なことに関わっていく必要があります。誰かから言われようがさせられようが、「自分がそうしたかったから」と自分からやっている人は自ずから自信と誇りに漲ります。良質な炭(人)はいつも自分から良質な炭になるために苦労を惜しまず燃え続けています。
人間のいのちや情熱は、自らが燃やすからこそ輝きますしその燃料は無限の如く体の奥から湧き上がってきます。毎日燃え尽きれば、翌日にはまた良質の炭が自分の中から産出されていきます。まるで石炭のヤマを掘り当てたように、真摯に自分の人生を言い訳もせず愚痴も言わず全身全霊で命がけで生き切るときその燃える原石を手にするのです。そしてそうして自分から生き切った後に遺るのが誇りなのです。
炭を使いこの聴福庵を実践する大切な理由の一つはこの筑豊という風土、炭鉱がぴったりと合う情熱的な人間性、その自然性。この地域の持ち味を活かすためにも炭を用いるのです。
いまいちど地域の心と誇りを取り戻すために自ら燃えて心熱くいたいと思います。
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すべての人は「自然性」を持っているはずですが、中には、人に水をかけられて湿ってしまっている人がいます。湿っている炭に火をつけよとしてもつかないように、心が湿ったままでは、いくら燃えている人に出逢っても火はつきません。そういうときは、まず、その心の湿りを乾かしてあげる必要があります。乾きさえすれば、自然に燃えたくなるものです。この乾くのを待てない、或いは、乾かす手間暇をかける余裕のない焦りが問題なのかもしれません。
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燃え尽きて灰になってなお、良質の灰だったら植物の成長を発展させると思うと「自分から生き切った後に遺るのが誇りなのです。」の一文がより輝いて感じます。今年のテーマからもそんな生き方に近づいていけるよう精進していきたいと思います。
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疲れが溜まると、遣りきるのをためらうので、翌日がまた苦しくなるのかもしれません。心も身体も調和するようにと遣りきるのも大切なのだと感じます。自他を分けずに大切に寄り添って生きたいと思います。
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聴福庵の畳は、畳職人さんから「購入」した訳ではありますが、それは畳を買ったということではなく、思いや誇りをこの古民家に入れていただいたのだという感覚が心の中に残りました。きっと誰もが炭鉱王、心の中の情熱を掘り起こし続けていくのが人生なのだと、今世を生き切っていきたいと思います。