現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。
それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。
見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。
例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。
そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。
もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。
伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。
子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。
引き続き、古来の文化を深めながら風土改善を見つめていきたいと思います。
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「物がない時代」から「物があふれる時代」になり、確かに生活は改善されてきましたが、多くの先人が望んでいた「物心両面が豊かな時代」にはなっていません。人の心というものは「心だけを養う」ということはできません。やはり、それは「暮らしの中」で養われていくものでしょう。そして、それは、「使う物の質」と「その使い方」にもよるのではないでしょうか。「ものとこころの関係」を見直していきたいと思います。
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手間暇は人から見えにくいところでやったように見せかけられても、自分には嘘はつけず生き方を表しているようです。「見て盗む」は子どもの頃から身近にあったからこそ出来たのかもしれませんし、本物を見る目も養われていたのかもしれません。子どもだからこそ何でも聞き好奇心を膨らませていたのではと思うと、知識としてではなく好奇心が湧くような声かけや楽しむ自分自身が大事なのだと感じます。自分自身が大量生産の一つにならぬよう、本物を追求していきたいと思います。
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まさに「働く」とは何かを問われているように感じます。プロセスを大切にし、本質であろうとするその心が、結果を生み出すのだと感じます。初心とプロセスを大切にするという事が何よりも大切であり、新しい価値観を生み出すこともまた、その一つの「結果」なのかもしれません。いつも新しい価値観で、学び続け変わり続けていきたいと思います。
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聴福庵の暮らしを通して、あらためて手間隙とプロセスということを感じ直しているように思います。畳ひとつをとってみても、自分たちがそこに関わるだけでなく、思いを入れていったり、またい草の生産者を守っていきたいという職人の思いを聴かせていただいたり、、上辺だけでは何でもよしになってしまいかねないからこそ、そこに何がこめられているかを自分自身がよく感じていきたいと思います。