この世に死なない人がいないように必ず形あるものは消滅していきます。自然でも同じく、いくら固い石であろうが鉄であろうが時間が経てば必ず風化して消滅していくものです。これは今の国家であっても世界であっても時代時代で必ず消えていくものです。
必ず消滅すると知るのなら、執着しているものの全ては消えてほしくないと願っている私たちの心でもあります。あるものを保とうとするのは意識から細胞にいたるまで自己防衛本能の根本でもあります。しかし消えてしまうものを無理に消えさせまいと自然の摂理に反していたらその歪から変化することを抑え込もうや変化することを避けようなどという不自然なことをやってしまうものです。
例えば、川の流れで水をいくらせき止めてみても水は増え続けて流れようとするものです。堤防が大きくなってみても雨の量や風化のスピードは抑えようもありませんから必ずその堤防は決壊して変化の流れは誰にも止められません。
だからこそ人はその変化を受け容れて、その自然万物が消滅することを知りそれが少しでも永く継続維持できるように努めていくのでしょう。変わることを受け容れる人だからこそ今あるものをもったいなく感じて大切にしていくことができます。
人間は自然の摂理において淘汰されるはずのものでも、いつまでもみんなが守り大切にすることで生き続けていく文化として子孫へ継承されていくようにも思うのです。
仏陀は2500年前に自燈明・法燈明という言葉を遺しました。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きる」と解釈されます。これは私たちでいえば組織に頼らず、内省を怠らず、理念(初心)を拠り所にして実践していきなさいという言葉になります。
変化していくというのは言い換えれば諸行無常ということです。変わらないものはなく、いつまでも今のままであることは続きません。だからこそどんな変化が訪れても理念(初心)を拠り所にして内省を怠らず、自分自身の心に意見をして歩んでいく必要があります。変化はいついかなる時も已むことはありませんから、常に人は日々に理念や初心を確認して自らがズレていないか、自分の心が変化に流されていないか、その変化に気づき心を常に原点回帰しているかと一歩一歩歩むたびに自らを省みる必要があります。
そうやって自分の心の主になることを自燈明といい、理念の主になることを法燈明になると私は思います。主体性というものは、自らの積極的な自燃力によって命を熾すこと、決して時と他人の奴隷になるなということでもあります。それを私は「主燈明」と名付けます。禅語でいうところの主人公のようなものかもしれません。
主は誰か、主とは何か、ひょっとすると仏陀はそれを生き方で示した方だったのかもしれません。
引き続き、私たちは子どもたちの主体性を守る仕事しているのだから自分自身が主体性を発揮して変化の中で何を守り何を守らないかを実践して子どもたちに主燈明を通してその背中を見せていきたいと思います。
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理念の実践と思いながらも実は理念ではなくリーダーを見ているのではないかとハッとします。それは影響力が大きく、アーナンダそんなことを思い不安を感じたのではと思います。共に実践をしていると思っていても頼っていては、それではまだまだなのだと感じています。ブレを修正しありたい方へ近づいていけるよう精進していきたいと思います。
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変わるものと変わらないもの。それを測るための軸が大切んですが、自分の人生を振り返るとその軸となる理念自体も変わってきたことを感じます。こういう生き方をすると決めたものも、実際には新たな出会いや失敗、事件から深まり、気づき、目指す生き方もまた変わってきました。ご縁は止められることが出来ないからこそ、これもまた仕方のないことなのかもしれません。頂いたご縁と変化の中で最善を尽くして受け取っていきたいと思います。
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「自己保身」が働くと、人は、自分の言動を「正当化」し、その生き方に「言い訳」をしようとします。また、人は、外の敵には強くても、「己心の魔」という内の敵には、簡単に負けてしまいます。こういった「執着」に迷ったり、「欲望」の瀑流に溺れたりしないように、拠り所とするものが必要です。人は、「己の信念通りに生きる」と言いますが、この信念となる「不動の境地」こそ、「自灯明」となるのではないでしょうか。
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理念であろうと世のいわゆる常識であろうと、ただ鵜呑みにして従っているだけではどちらも対して変わらないのかもしれません。一つひとつ、それが何であるかを自分事として考え、照らし合わせ、自分の中から湧き出したものでなければ本物ではないように感じます。何を観てどう自分事として動くのか、そこを間違えないようにしたいと思います。