自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

  1. コメント

    時代が進むにつれ、「時間のスピード」が5倍も10倍も速くなり、「時間に追われる」人が増えました。そこで、みんな一所懸命に「時間」を管理しようとしています。気がつくと、みんな急ぎ、焦っています。しかし、自然の時間の流れ方は、昔も今も変わっていません。一日も一年も昔と同じです。この「生きる時間」と「働く時間」の流れ方がズレてきたことで、「今の意味」がわからなくなり、タイミングという感覚がわからなくなってしまったのではないでしょうか。

  2. コメント

    時機を見極めるのは主体的でなかったら出来ないことで、「種は生きている、種にはいのちがある」ということを思わず育てるものとしていたら、刈るために必要な日数になってしまいます。今、なすべきことを為す、それを見極めることは非常に難しいことですが、何のためと問い続け少しでも近づいていきたいと思います。

  3. コメント

    人間が作り出した今の時間軸は目の前に起きていることよりもその時間軸で判断してしまうように感じます。ルーティーンのように同じ時間、同じ数字が時を刻みますが今は2度とない事を忘れてしまわぬよう、いつもゼロベースで歩みたいと思います。

  4. コメント

    あらためて「時中」の意味に本当にそうだとなと思いながら、頭ではわかるようなものでないのがこと時なのだと思います。時間に人間がコントロールされてしまっているような、優先順位が何だと考える前に、もっと自分の中の自然の感覚、心の動きなどに素直に従ってみることを大事にしていきたいと思います。

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