心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

  1. コメント

    子どもの頃、大人の世界は想像も出来ませんでした。そして大人になるにつれて子どもの世界のことを忘れてしまったかのように、目の前のことが全てになっていました。刷り込みという曇りに晴れ間が差すたびに、ふと子どもの頃を思い出し、自分もしてもらったように子どもたちへも大事にしていきたいと感じます。
    聴福庵に飾られた「至誠」の額があまりにもはまり、以前から見守られていたような感覚に駆られます。いつも見守られているそんな安心感を大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    人生には、ふと自分の本来の純粋な心を思い出す瞬間があります。それは、懐かしさでもあり、この世に生まれる前の魂の本質そのもののような感じがします。汚れる前の、世の中の価値観に振り回される前の、劣等感も何もない魂は、それだけで輝いています。いつの間にか持ち過ぎたものを放し、纏い過ぎたものを脱いで、自分の魂の本質そのままに生きられるようでありたいと思います。

  3. コメント

    至誠を貫けるか。日々が自分との闘いである中で、至誠とは自分のことを心配していては、仕方がないことを実感します。今の最善を出し尽くす。その為にも自分を修めることを怠らず、歩んでいきたいと思います。

  4. コメント

    この世に生を受けることすら本来なら奇跡のようなことですが、そのいただいた有難い機会なのに、ものごころがついた時にはもう魂が曇っていてただ生かされるだけになってしまっていたら残念なことです。曇ることがあっても戻ることが出来る、本来の自分に出逢える懐かしさ、そんな根っこにある純粋な心を自他ともに守っていけるような働きをしていきたいと思います。

  5. コメント

    毎回 感動しながら拝読しています。
    人生の指針になる言葉を教えていただき感謝します。
    最近 amazonで購入した「ある村長の満州引揚げ戦後復興奮闘記」(佐野剛著)という野見山社長様とほぼ同じ考えをもって大正・昭和・平成の戦中・戦後の時代に熊本→満州国(奉天、ハルピン)→熊本で生き抜いた無名の男性の私家本を読みました。
     「君たちはどう生きるか」に対し「私は生きこの生きたように生きてきた」という生き様を淡々と書かれています。
     最初は 著者の子供・孫たちのために「清く正しく信念をもって生きよう」と「悔いなき晩景」を書きその目的は「温故知新」と述べています。
     様々な人がamazonのレビューにも感動を書いています。

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