不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。
時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。
例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。
いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。
易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。
生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。
古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。
変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。
徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。
学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。
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種の蒔き時を誤ると芽が出ないということは経験としてあります。ですが、一体何で種が今は未だだと判断できるのかは分かりません。気づいたら自分自身も年を重ねているのだと自覚し、今に適したものに変化していなければ取り残されてしまうのだと感じます。身のまわりを見渡すと学ぶことばかりです。変化を迫られてから変わっていては時機を逃してしまうと思うと、自分から先に自分に何ができるか、こんなことはどうかを提案していくような働き方を目指していきたいと思います。
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「時流」に流されると「時中」がわからなくなります。その時代時代には、その社会にとっての「都合のよさ」というものがあり、みんながそれを「良し」とするので、ついつい「時流」を正しいものだと勘違いしてしまいます。自分の都合だけでなく、その背景にある「時代の都合」というものにも留意したいと思います。
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「ものごとを知って、そのまま見て見ぬふりをするのか。見て見ぬふりをしないなら、変わり続けなければと思う、周りが変わり続けるから」というようなことをある方が仰っていたのが印象的でした。言葉そのものよりも、その背負っているものの大きさ、そして変わり続けてきたというこの一年があるから一層そう感じたのかもしれません。変化するではなく、常に変化の中にあることを自覚していたいと思います。
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自分を振り返ると本質を語ることも、本質を実践できてるかも自分自身では分かりませんが、本質であろうと変わり続けようとして行動しているかどうかは分かります。思っているだけでは変わりませんが、行動していれば変わっていくと感じます。本質を分かろうとすることを辞め、目の前に頂いている機会に向けて精いっぱい自分を活かそう、変え続けようと動き、振り返り、改善していきたいと思います。