植物を見ているとそこにとても柔軟性があることを感じます。特に新芽の頃の植物はとても柔らかく弱くできています。しかし様々な自然の猛威も受け流し、また虫たちの餌になっても旺盛な成長力でリカバーしていきます。
老子は、柔弱の徳といって柔軟性があるものがもっとも変化に強いということを言いましたがそれは植物たちの生き方を見ていれば一目瞭然です。老子はきっと植物たちがどのように自然に調和して生きていたかを学んでそれを通訳していたのだろうと感じます。
この柔軟性は言い換えれば、自分の方を変化させていく素直さといってもいいかもしれません。これがダメならあれでいこう、あれもダメならこれでいこうと様々な手を持っているということでもあります。これは常に変化は来るものとして準備を怠らず精進して変化が来たら謙虚にどう本質を維持しながら道を深めさらに柔軟に対応していくかといった学問を実践し続けているということです。
道は続いていますからその道を歩んでいく中で初心を忘れずに一つ一つのことを意味付けしては、その道中に出てくる障害や困難を乗り越えて進んでいかなければなりません。
その際、そこで簡単にあきらめてしまったらそこから前へは進めなくなります。その時こそ、先ほどの柔軟性が必要で変化し続けて福に転じ続けて七転び八起きして歩んでいくのでしょう。根無し草であれば、風が吹けばどこかに飛んでいきますし、もしくは土からの養分を貰えなくなってしまいます。だからこそ困難を糧に根を張る精進は、忍耐によって培われそれは初心を忘れないことの連続によって養分を吸い上げていきます。
どんなことが来ても変化していけばいいという最初から自然に抗わず逆らわない生きる姿勢の中に、相手を尊重し畏敬の念を持ち常に成長していこうとするいのちの姿が観えてきます。
いのちは成長することを求めるとき無限に養分を得ていきます。
逆に成果主義や効率主義、効果主義などプロセスよりも簡単便利に走るときに養分は得られずいのちは枯れていくように思います。如何に自分を磨き続けるかは、その初心や理念に対して日々の変化にどれだけ柔軟性を発揮していくかということに尽きるように私は思います。
磨くことが柔軟性ですから、矢印は自分に向けて自分磨きを怠らず自然を尊敬する真心のままに変化を楽しんでいきたいと思います。
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「変化」を受け入れるということは、「自分を譲る」ということでもあります。一度くらいなら、誰でも譲れますが、それが重なったりすると、急に柔軟性を失うケースがよくあります。結局は、この「譲れない」というところに、「自分の価値観」や「自分の都合」が現れます。もう少し器を大きくし、視点を高くして「受け流せる強さ」を持ちたいものです。
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変化、実践を続けてきたから今があることを感じます。頑なに拒んでいたら今の自分に出会えていないと思うと、それもまた不思議ですが同時にまだ見ぬ自分の可能性も秘めているのだと思います。そう思うと、日々内省し至らなかったところは直し、いいものはさらに伸ばしていけるよう実践を積んでいきたいと思います。
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忙しさに任せたり、流れに任せているうちに、問題は色々と出てきます。その時に如何に柔軟であれるか。やり方にこだわらず、自我を捨てられるか。自分自身にとっては大きな課題です。もっと先々をみてこだわりを捨てていきたいと思います。
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片田教授の防災の三原則の話を聴き、改めて自然こそ嘘偽りなく人を善くも悪くもそのままに照らしてくれるものなのだと感じられました。生き方の姿勢が問われてくる厳しさもありますが、それこそまさに自分のいのちの責任者であるからこそなのだとも思えます。変化の中にいるからこそ、自らが変わっていきたいと思います。