古き新しき道

「自然」とかいて「かむながら」と読んだ人物に文人の保田與重郎がいます。私は今から5年くらい前に、近江八幡宮で保田與重郎が書いた石碑を見て感銘を受け、その後、義仲寺にて松尾芭蕉の隣にお墓があるのを見つけ、さらに自然農の田んぼがある奈良県桜井市に生家があったりと色々と深いご縁を感じます。

私の意訳ですがこのかむながらというのは、漢字では随神とも書き、ここでの神とは自然、その自然に遵うと読んでかむながら、つまりは自然と一緒一体に永続している道そのもののことを指します。

私たち日本人の親祖の初心を、そのままに子孫の私がその道を受け継いで歩み続けていくというのがこのかんながらの道の意味です。日本人にとっては、道=かんながらであり、自然体で生きることこそが連綿と続けられてきた営みであり暮らしです。

自然から離れて自然と対立して、自然を征服して生きるのは私たち本来の道ではなくそれは別の人たちが歩んできた道でもあります。どの道を選ぶかは自分次第ですから、いくら路面を塗装され塗り固められたとしても時間が経てば必ずその路面は剥がれ本来の土が出てきます。

ここに果たしてかつての古道があったかどうかは、その道を志す人たちによって探し出され必ず復活していきます。そしてその復活の兆しは、消えかけてもなお遺る道しるべによって顕現していきます。

自然は太陽が同じ軌道を廻るように、地球が循環を已まないように、宇宙が流転し続けるようにそこには目には見えませんが確かな通り道が存在します。

引き続き、初心を忘れずに一歩一歩脚下の実践を踏みしめながら古き新しき道を前へと進めていきたいと思います。

 

 

  1. コメント

    今自分が考え、思うことをかつて同じように思った人がいると思うと、出会えなくても歩みをちゃんと進めていけばいいのだと感じます。機織りをしていても実際に織っている時に見えているのは部分ですが、織り上がりを見るとこんな風になったんだと感じ入るものがあります。過去も未来も思うことはできますが、見えるのは今だけです。今ここの一つひとつの実践を大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    どちらが「主」になるかを争うと「対立」することになりますが、一方が主体的に相手を敬い尊び、随おうとすると「一体」となることができます。この素直さの基準を「自然」に求めた見識の高さには驚きます。いつの間にか、不自然なことが平気になってしまっていますが、人としての素直さを取り戻し、歩むべき道を間違わないようにしたいものです。

  3. コメント

    お客様からも、よく「かんながら」とはなにか?!と聴かれる機会が増えました。「かんながら」という言葉の捉え方は人それぞれにありますが、しかし共通しているのはでは「何を実践しているのか」という事のように思います。考えたり、理解したり、それぞれに種類はありますし、価値観はありますが、では「何を実践しているのか」という事については、価値観を越えた実践者としての共感があるように感じます。

  4. コメント

    人間の中には自浄作用というか、本来の道を求める心が誰にでも備わっているのだと思いますが、欲がそれを上回ると浄化し切れず破滅へと進むことになるのでしょう。祓い清めることもまた形式にとらわれず、様々なカタチで私たちの文化や暮らしの中に根付いていたものなのだと感じます。自制・自浄のはたらく自然体の生き方に近づいていきたいと思います。

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