聴福庵には古い箪笥がいくつかあります。すべて古いもので大正時代や明治時代、江戸時代のものがあります。桐箪笥に洋服箪笥、水屋箪笥、どれも経年変化した飴色の美しいものばかりです。
特に滋賀県から来た100年前の水屋箪笥は、届いたときは長年使われずボロボロでしたが今では磨き直し甦生し沢山の和食器や陶器を保管してくれています。廊下に置いてある桐箪笥は陰翳を浴びてしっとりとしています。洋服箪笥は、来客や私たちの大切な衣服をかけてくれます。
この箪笥というのは単なる収納ではないことは、古民家の箪笥を観ているとよくわかります。
柳宗悦氏に「用の美」という言葉があります、そこにはこうあります。
「されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。」
道具は使う人と離れることはなく、使われることによってそこに美しさが顕れます。お互いに関係を持つというのは、時として傷つけあい、時として励まし合い、助け合います。
この関係を築く、その関係を美しく保つ、ここに私は用の美を思うのです。
以前はどのような主人と一緒に暮らしをしていたのか、どのような主人と共に思い出を残してきたのか、古い道具は触って磨いているとこちらに語りかけてきます。おかしいと思われるかもしれませんが、時折寂しくなったり、時折歓んだり、時折穏やかになったりと、その空間に流れる時を感じると懐かしい情緒に充ちてきます。
私たちは、絆を結び、つながりを持つことでお互いを活かしあいます。活かしあうとうのは、活きているというこで自然のありのままの姿になります。活かしあう関係というのは、ある時は自分が相手の中に顕れたり、相手が自分の中に顕れたりと互換性を持っています。つまり自分が道具を創造したのであり、その道具によって自分が創造されていくとも言えます。
道具は主人を代々換えてはいつまでもいのち続く限り遺っていきますが、これは言い換えれば私たちにとっては「ご縁」とも言えます。どのようなご縁を持つことでお互いが成長していくか、そのご縁の不思議さと霊妙さに結ばれて今の自分が活きて活かされていることを自明するのです。
美しいという言葉は、ご縁の中にあってはじめて光り輝きます。
引き続き、懐かしい心を洗い清め磨き直しながら子どもたちの未来を切り拓いていきたいと思います。
コメント
お互いにいのちを尊重しあっているからこその美しさなのだと、今改めて感じます。どんなに美しいものも何もしなければ埃が被り、大事な衣服だからたたんで仕舞い、器も拭いて仕舞う。そこに人が磨かれる所作があると思うと、自分自身日々の生活に襟を正す思いです。日頃の生活から片したり、元に戻したり小さなことかもしれませんが正していきたいと思います。
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「人と道具」には「相性」というものがあります。自分が道具を選んでいるつもりでも、実は、道具にも選ばれているのでしょう。その道具が持つ気品や風格に相応しい使用者かどうかを試されます。相性とは、「つながりの良さ」のことあり、「使う」ということは、「一体になる」ということでもあるでしょう。きちんと「呼吸を合わせる」ことができるよう自己を磨いておきたいものです。
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道具も、綺麗な時だけ大切にしたり、傷が付いていないものを大切にしたりしている自分の価値観が無いだろうかと思うと、思い当たることがあります。それは多くは考えずに買ったものです。後から考えるのが大変になります。この引越しから、家財との関係性を見直して行きたいと思います。
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なにより写真が言葉以上にその美しい関係を物語っているように見えます。箪笥と言えば昔は嫁入り道具としての代表だったと言われますが、和服も和室さえも姿を消しつつある現代の家屋では居場所がなくなってきているものなのかもしれません。そのものが語るものがたりに耳を傾けることから関係を築いていきたいと思います。