人生にとってもっとも得難いものに「経験」があります。生まれてきて私たちが得られる唯一無二のものはその体験を味わい経験することができることです。生きているだけで仕合せなのは経験の真っ最中であるからだとも言えます。その一期一会の人生をどのように生き、どのように味わうかは、その人の魂の求めるところに由ります。
先日のブログから魂を磨くことをキーワードに書いていますが、真摯に真心を盡していく中で体験は光り輝き、豊かな経験は永遠の記憶となって宇宙の貯蔵庫に蓄えられていくように私は思います。まるで宇宙空間の中で星が煌めくように、わたしたちのいのちや魂の輝きは空間に宿り生き続けていきます。
魂を磨くという言葉に、京セラの稲森和夫さんがこういうことを著書で記しているので紹介します。
「人生の目的はどこにあるのでしょうか、もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。
昨日よりましな今日であろう、今日よりよき明日であろうと、日々誠実に努める。その弛まぬ作業、地道な営為(えいい)、つつましき求道(ぐどう)に、私たちが生きる目的や価値がたしかに存在しているのではないでしょうか。
現世とは心を高めるために与えられた期間であり、魂を磨くための修養の場である。人間の生きる意味や人生の価値は心を高め、魂を錬磨することにある。まずは、そういうことがいえるのではないでしょうか。
俗世間に生き、さまざまな苦楽を味わい、幸不幸の波に洗われながらも、やがて息絶えるその日まで、倦(う)まず弛(たゆ)まず一生懸命生きていく。そのプロセスそのものを磨き砂として、おのれの人間性を高め、精神を修養し、この世にやってきたときよりも高い次元の魂をもってこの世を去っていく。私はこのことより他に、人間が生きる目的はないと思うのです。」(出典:『生き方』)
「プロセスそのものが磨き砂」という表現に多く共感するものがあります。私たちは日々の体験や経験が磨き砂になり自分を磨き、周囲を磨いていきます。その体験を早く終わらせようとしたり、結果さえよければいいと生きてしまうのはあまりにももったいないと思うのです。
一度きりの人生だからこそ、そして人生には必然しかないからこそ、その起きた出来事を誰よりも真摯に受け止め、誰よりも真心を盡して正対していくことが魂を生きたことになるように思います。
生きるということ自体が魂を磨いているのだから、どのような生き方をするかは何よりも忘れてはならない人生の戒訓のように思います。
引き続き、今日の体験もまた味わいながら心を尽くし行動する魂の実践に生きる一日を過ごしていきたいと思います。
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忙しい今何でこんなことをやっているのだろうと思いながらも、心の求めに応じてやっているからか、気づけば集中している不思議な感覚はお金で買えるものではありません。きっとこれもいつか糧になると思うと、心が騒つく中でもそれと同じくらい自分自身を助けてもらっているようでもあります。大人になってからもできることが増えることは嬉しいことです。実地での学びを大事にしていきたいと思います。
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「人は、自分の仮説を証明するように生きる」と言います。その「仮説」の中で、いちばん中心にあるのが「人生観」です。この「自分にとって人生とは何か?!」という問いにどう本気で答えるかで、その人の生き方が決まります。ここがあやふやであれば、目の前の出来事に翻弄されることになりますから、常により建設的な仮説を持っておきたいと思います。
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いつもいつも、有難い魂磨きの機会を与えて頂いています。直視するとどの場面も自分1人では与えて頂けるものではなく、たくさんの方々に支えられ、助けられて今がある事を強く実感します。その事実を自覚する事が、磨き砂となるように思います。頂いている機会ばかり見ず、頂いている機会にあるお陰様を見ていきたいと思います。
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仏教では四苦八苦と言うようですが、磨かれるためにこの世に生を受けたならば思い通りにならないことばかりであるのは当然のように思います。自然から離れていくとこの四苦八苦すら思い通りになるような錯覚をしてしまいそうですが、コントロールするのではなく、その受け取り方を鍛錬していきたいと思います。