炭の実践を続けていると、炭には多様の個性があることが分かります。それは木によっても異なりますし、作り手、また製造方法でも異なります。人は炭をみんな炭と呼びますが、実際に触れているとあまりにも個性が強い炭を単なる「炭」という言葉ではとても分類分けすることはできません。
同様に火も同じ火はなく、竹炭の火、備長炭の火、また薪の火、枯草の火と、その火の種類や個性も千差万別、あらゆる個性があります。そして燃焼の時間によってその温度の高さ、熱伝導の量もまったく異なります。炭には同じものは一つもないのです。これは香りも同じく、同じ香りがなく、そして同じ光もなく、同じ形もなく、一つとして同じものはないのです。
そしてこれが自然そのものの姿であろうと私は思います。
脳は物事を理解し、言葉で伝達するために本来個性があるものを一つの同じものであるかのような調整を行いました。しかし実際の現実では同じものは一つもないのだからそこに歪が出てきます。その歪が少なく精度が高くしたものを科学と呼び、大したもののように語りますが自然はそんなものではなく、不思議な調和の中で決して分類できないもののつながりや融和によって存在しています。
同じものがないと理解するのなら、同じように接している自分自身を見直す必要があると私は思います。それが自然の理解です。自然の理解の入り口は、まず自分の価値観の前提をひっくり返すこと。そして同じものを探して比較しようとする習慣を、もともと異なっているという接し方に換えた習慣を上書きしていくのがいいように思います。
みんな違ってみんないいという言葉であっても、その価値観の前提が歪んでいたらその意味の本質も変わります。それぞれの個性の尊重はまず自然そのものを観る力、自然に触れる力、自然を丸ごと理解する感性を暮らしを通して身に着けていく必要があると思います。
炭に触れれば触れるほど、自分の感性は磨かれていきます。炭と火が感性を磨く砥石になっているのです。
引き続き炭の実践を通して、自然の理解を深めていきたいと思います。
コメント
人は、「きちんと説明がつくものでないと、うまく認識できない」といいます。そこで、「こういうものである」と説明することに一所懸命です。しかし、同時に、それが「固定観念」になって、そこに縛られてしまうことになったりします。「経験知」は智慧ですが、わかったつもりにならないように、常に毎朝リセットし、一日一日を新鮮な態度で生きたいものです。
コメント
一括りに物事を捉えていますが、産地も異なり見た目も異なり、接すれば接するほどその特性を実感するのは日頃から関わっているからなのだと感じます。これまで炭に使う生活をしてこなかったですが、古民家で扱うようになり、同じ炭はないということも、言われると「そうかも!」と気づくものがあります。炭に限らずかと思いますが、触れれば触れるほど好きになったり、深めていったりということを大事にしていきたいと思います。
コメント
過去の経験から理解しようとする思考回路を改めて、いつも新たな眼差しで今を見れたらと思いますが、中々難しく、今を生きている訳ではなく、過去の記憶を生きているように感じます。いつも今を生きる為にも、今を直視する事を大切にしていきたいと思います。
コメント
同じものとして見ようとするのは頭がラクをしたがっているのか、それとも不安になるからなのか。人をカテゴライズすると安心するというのも似たようなもので、どこかそこには自分がわかるように管理したいというような欲求みたいなものがあるのかもしれません。そのままを受け取れる自分に近づいていきたいと思います。