よく相談を受けるものに「自分のことがわからない」というものがあります。自分探しなどもそうですが、何が自分であるのかを探しているうちにより一層自分のことが分からなくなるという状態のことをいいます。
本当の自分の声を受け入れず、そして自分のことを丸ごと認めることもなく、こうでなければならないとか、こうあるべきだとか自分のことを否定しているところが素直になれない理由のように思います。
実際には外側から見た自分のことを自分だと思い込み、内側から出てくる自分を抑え込んでしまえば自分と調和できずに自分が分からなくなってしまうのです。
少し深く考えてみたら、人は感謝の心を忘れたときに自分が分からなくなるように思います。無理やり外側から有難いと思わなければならないと言い聞かせてもそれは決して感謝ではありません。自然に内側からにじみ出てくるように勿体なく有難いと感謝の気持ちが湧いてくるとき本当の自分に出会うように思います。
自分がどう思っているかばかりに関心を持ち、自分のことばかりを考えてしまえばしまうほどに自分はきっと正しいと思い込むようになります。自分を絶対視し、それを貫くことが自分だと思うのは自分に正直なのではありません。
自分に正直というのは、素直になること、感謝すること、それを外側から素直であろうとか感謝であろうとか思うことではなく、自然に心が素直になること、自然に心が感謝になることのように思います。
言い聞かせようとするのは、自然の状態ではありません。心が自然に感じるままに今の自分の心を認め、受け容れることで本当の自分に出会えます。いくら感情の自分が出てきて感情をコントロールしようとするもう一つの感情が出てきたとしても、それは決して本当の自分ではありません。そこで自暴自棄になりそうなその時こそ、芯の強さ、心の強さが必要になります。つまり日ごろの心との対話、内省が重要になってきます。
経験をしている大事な場面、その時々の自分の心は本当はどう思っているのか、自分の心は何を感じているのかと、自分自身を深く見つめて心に耳を傾けてみてはじめて自分を知るのです。それを怠れば感情に流される日々を送り日々は忙しく過ぎ去っていくのです。
自分探しをはじめるのは心ではなく感情に呑まれるからです。正直さとは感情の掛け合いの中にはなく、自分の心は本当はどう感じたのかと自己との素直な対話ができるとき自分に正直になったと言えるように私は思います。
理想の自分になることが幸せだと思う考え方を手放してみれば、今の幸せに気づけるものです。自分の今の幸せに感謝する心が自分を誤魔化さないでいられる方法になります。内側から出てくる素直な声はすべて感謝と紐づいているからです。私たちはつながりの中で幸せを感じ、その時に本当の自分に出会うからです。
心に嘘をつかないというのは、自分の心を丸ごと認めるということです。
子どもの心を守ることは、本心を内省によって磨くことです。引き続き、自分の心に寄り添う訓練を積み重ねていきたいと思います。
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これまでのような自分探しをやめたからさをり織りに出会ったのかなという感覚があります。もし、周りから見た自分を意識していたら、わざわざ機織りになど手を出さないと思います。様々な体験を通して少しずつ自信がつき、自分でも知らないような自分との出会いは驚きもありますが、可能性が広がっていくようで嬉しくもあります。人の意見なのか自分の感情なのか、分からなくなっている時ほど、本当は何なのかと自問し内省を大事にしていきたいと思います。
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人は、「理想の自分」を語るとき、「今の自分」を否定します。「こんな自分ではダメだから」がんばろうとしますが、この否定からは、「自己肯定」は生まれません。「これでいいということはないが、これがいまの、わたしの精いっぱいの姿です」これは、相田みつをさんの言葉ですが、この未熟で弱い自分をありのまま受け入れて、日々を懸命に生きることが、「ほんとうの自分」に出逢うための方法なのではないでしょうか。
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本心を態々何かの価値観や知識、目指すべきものや正解像で語ってしまう事が自分の中にもどこかにあるのではないかと思います。これはもったいないと思います。本心を本心のままに語ることが出来るから心が拓かれていき、あるがままに聴く準備が進められるように感じます。両手に何を握っているのか。カッコつけようとしたり、カグヤはこうあるべきと正解像から考えたりせず、今を直視していきたいと思います。
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もし目の前の小さな子どもが「僕は自分のことが分からない」と言って考え込んでいたら、それは何か異様なように思います。考えてもわからないのは、考えても分からないもので、もっとありのままに子どものように動いて心の中に何かを感じて、ということを繰り返していく中で見えてくるものもあるように思います。この辺りもまた Do See Plan というサイクルの必要性とも言えるのでしょうか。