人はどれくらい先を見据えるのかで、今の行動が変わってきます。例えば、明日のことだけでいっぱいな人、一週間の人、一か月の人、一年の人、十年の人、百年の人、千年の人、永遠の人では今の行動の質量は全く変わっていくのです。
私は、どうも変わっているタイプのようで永遠や千年にもまた今日明日にも興味があります。どちらにも興味があるからか、一日の中でその時間帯を何度も行き来します。しかしふと立ち止まって初心を省みていると、どれくらい先を見据えていくかとよく考えます。
昔の人々、またご先祖様たちはいったいどれくらい先を見据えていたのでしょうか。今に現存する伝統や歴史、文化の中にその見据えていた未来を感じることができます。その人の自利や利己などはもはや歴史の篩にかけられて残っておらず、ただ遺るのはその遺徳ばかりです。自分のことよりも如何に未来を見据えて自分のやるべき使命を真摯に遣り尽していたかを感じます。
情報化社会の中で、日々に膨大な量の情報が行き交います。そんな時代では、一寸先は分からないほどの目で追うにも難しい時代であることはすぐにわかります。そんなことから忙しくなり、毎日に忙殺されちょっと先のことを考えるだけでいっぱいになるのも分かります。
だからこそ「どれくらいまで先を見据えているか」という自問自答は、大事なものを守り抜くために必要な問いであろうと思うのです。
それは企業理念や組織の風土改革においても同じく、なんでこんなことをやっているのかと周囲に言われても手綱を緩めずにしっかりと引き締めて歩んでいくことに似ています。
実践の大切さというのは、それこそが先を見通した行動であるからに他ならないからです。不確かな将来だからこそ、一寸先が見えにくい時代だからこそ、どの方角に向かっているか、そしてその方角の先に何を見据えているかというものを常に自覚していなければなりません。
一人一人がリーダーであり、一人一人が主人公だからこそ本質を守り大切なものを維持するために常に見据えるものを持ち続けていくことが自分の未来を自ら創り上げていくことになり、それが子孫へ受け継がれ新しい今を創造していく基礎になっていくと私は思います。
周囲に理解されなくても、見据えているものを一緒に分かち合う仲間ができるまで遣り切っていきたいと思います。
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一般的に、批判する人の視野は狭いものです。確かに、現実を無視した夢物語では説得力を持ちません。また、自分たちの利害にとらわれるほど、「時間的視野」も短くなっていきます。問題は、「今日が未来と繋がっていないこと」です。「今を永遠と結びつける」ためには、「未来に譲るために今を生きる」という思想を学び直す必要があるのではないでしょうか。
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ブレそうになった時、理念に立ち返り戻る場所があるのは有難いことです。そこに葛藤はもちろんありますが、それでも考える軸があるからこそ自分自身に問うこともできます。実践も積んだ分、自分に自信が持てます。人から何か言われても決めたものがあれば揺らぐことはありませんが、凹む時は同時に自分自身がどこまでのものだったのかもわかります。何のためにやっているのか、たった一言ですが自分自身の考えが究極に分かる質問のように感じています。見据えている先がどこの時点であっても、その想いに想うだけでなく忠実に実践を積んでいくことを大事にしていきたいと思います。
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何の為に生きるのか、どこまで先を見て生きるのかは、自分の人生の中で触れてきた人物によっての影響がとても強いことを感じます。尊徳氏に出会うまでは、caguyaに出会うまでは、妻に出会うまでは、子どもたちと出会うまでは、父との死別という事実と出会うまでは、今の自分を変えるきっかけとは出会えませんでした。そう思うと、出会いこそすべてと思えてしまうくらい、自分というのはおかげさまで出来上がっていることを感じます。自分都合や傲慢な人生を過ごさないためにも、今いただいている事実への感謝を忘れないようにしていきたいと思います。
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過去を知り、受け継いでいくことが、未来を考え、次代に遺していくことに繋がっていくように思います。様々なことを知っていきますが、それを何に繋げていくかは自分次第、既に必要なものは十分にいただいていることを忘れず、理念や初心から日々省みて、その先へと繋ぎ活かしていきたいと思います。