心田を耕す

二宮尊徳の教えに「心田を耕す」というものがあります。そもそも人間のあらゆる荒廃はすべて心の荒蕪から起こると説きました。荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで土地が手入れされずに荒れていることをいいます。荒廃は家屋などでいえば、荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。

この荒廃は心の荒蕪が問題であり、それを解決するには心田を耕すしかないといいました。私は自然農や古民家甦生を通して感じたものは、暮らしが失われることでこの心田もまた失われ荒廃していくということです。

本来、田であれ家であれ人が手入れを怠ればあっという間に荒んでいきます。なぜ荒むかといえば日々の暮らしを怠り忙しさにかまけて心の手入れをすることを忘れてしまうからです。

都会に住めば、忙しい日々を送る中で暮らしは消失していきます。特になんでも簡単便利に頭で考えたようにできる世の中になってくると、本来は有難かったことも当たり前になり、自分の都合よくいかなければ不平不満などが出てきます。それに拍車をかけてお金でなんでも解決しようとするあまり、さらに心を用いる苦労の方や、心を慮り丹誠を籠めるようなことがなくなっていきます。

古民家を一つ丁寧に建て直し、手入れをし甦生させていくともう十数年も置き去りになって雨漏りがして屋根が崩れ荒れ放題になっている隣家が気になってきます。一つ家を直せば、町並みは美しくなり隣の家が気になってくる。田んぼも一つ美しく手入れすれば荒廃された隣の田も気になってくる。こうやって一つ一つのことを手入れしながら、一つ一つ荒蕪を開墾して耕して手入れしていく以外に人々の心を直す方法はないのです。

二宮尊徳のいた時代は、大飢饉が続き食べ物がなくなり農民たちは重税で苦しんでいました。その中で村々は荒廃し人々の心もすさんでいたといいます。今は時代は変わり食べ物は豊富にありますが、都市一極集中で地方は少子高齢化が進み田畑や古民家は荒廃が進んできています。人々も重税がかかり、格差は広がりますます時代背景が似てきています。

一人一人が覚悟を決めて、暮らしを立て直し心田を耕すことによって荒廃を転じて幸福に目覚めていく必要があると私は感じます。

何をもって心田を耕すのかは、もう一度本物の暮らしとは何かと見つめ直すことからではないかと私は思います。本物の暮らしは、日々の心を耕します。かつての伝統的な日本の暮らしは感謝に包まれ謙虚に自然と一体になって日本人の心と共に慎まやかに継承されてきました。

文明が進んでも、生き方までは変わらず時代の進化は正常に行われてきたものが明治頃からそれまでの道から離れ戦後に様々な影響を受けて今に至ります。今一度、原点回帰し日本人としての生き方、つまり日本的な暮らしを甦生させ、本来の日本人としての心を耕していく文化を再興する必要を感じます。

そのためにも一人一人が目覚め、まず独り荒れた田に入りそれを開墾し、荒んだ家に入りそれを甦生させる、その真心を磨いて人々の心に潤いを与えていけるような実践を積み重ねていくしかないと思っています。

先人の尊さには頭が下がります、二宮尊徳の積小為大を実践をしつつ子どもたちのためにも暮らしを甦生し心田を耕し続けていきたいと思います。

  1. コメント

    金次郎が空き地に菜種を植える逸話を初めて知った時、衝撃を受けました。その生き方には学ぶべきことばかりですが、仰ぎ見るだけでなく今の時代にどう実践し活かしていくかは、自分自身にかかっていることを改めて感じます。一円観はもちろんのことですが、他にも様々な具体策をもって心を耕し続けた生き方に倣い、実践を積んでいきたいと思います。

  2. コメント

    日本人は、「心」というものに対する意識が高く、特に「心の乱れ」に対する警告文化があります。また、心を耕し整える方法をたくさん持っています。儒教、仏教、神道の他「お天道様が見ている」という「教え」、武士道に始まり、柔道・剣道や茶道・華道などの様々な「道」、また「履物を揃える」といった「躾」、「おかげさま、おたがいさま」という「暮らしの智慧」もあります。これらは、すべて「暮らし」の中にあることを確認しておきたいと思います。

  3. コメント

    自分自身を見つめるとき、ただ自分をみても自分は何者かは分かりませんでした。自分の欲は見えても、どんな人なのかは分かりませんでした。しかし、自分自身がどうやって生まれてきているのかを見れば、親がいてくれて、ご先祖様がいてくれて、今がある事に気付きました。紡いできて下さった暮らしに護られている実感から、自分自身も何をすべきかが見えてくるように感じています。先人たちの声を聴けるように、心田を耕して行きたいです。

  4. コメント

    二宮尊徳翁が仰っていたように、釜や膳や椀を洗う目的が「明日食べるため」なのか「昨日まで用いた恩のため」なのかは、生き方としての大きな差であることを感じます。明日生きるという我ばかりで今日まで生かされたというお蔭を忘れがちですが、家が廃れる、文化が失われるというのも道理は同じだと思えば、日本人として心がどちらを向いているのかをいつも省みてそれを正していきたいと思います。

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