天神祭りに合わせて菅原道真公を深めていると、遺した足跡や和歌からその人柄の純粋さが観えてきます。今でも人々に敬慕され、信仰されるのはその純粋な生き方に共感するところがあるからかもしれません。
今では法律や常識、大多数の正義ばかりがマスコミで論じられ、視野の狭い価値観の固執による正義ばかりが取り立てられますが人々の心の奥にあるお天道様がみてくださっているという正義を菅原道真公の生き様の中に共感したのかもしれません。この正義は吉田松陰のいう大和魂のことです。日本人はみんなこの大和魂を心の根っこに持っています。
本来の正しいことは、誰かが決めた正しいではなく純粋に自分らしく生き切った純粋性の中に宿るように私は思います。純粋な真心や、純心の祈りの中には大義があります。その大義に生きる姿に人々は感動し、そういう人をいつまでも大切に語り継ぐのでしょう。
菅原道真は北野天満宮に「文道の大祖・風月の本主」と示されます。これは菅原道真公のことを「和魂漢才」といって日本人のままに中国からの文化を融和させ温故知新させた方だとするからです。異なる文化を学び、その異なる文化を和する力。それは自国の歴史と文化の誇りのままに他国の文化も受けいれていたということです。
これは今の時代においても西洋文化が流入していく中で、西洋になるのではなく和魂洋才を発揮することに似ています。この和魂は大和の心、つまりは日本古来の日本人の精神のままに異なる文化を融和して新しい日本の文化の一つにするという進化の業です。平易にいえば、才を正しいもの(誠)のために活用するということです。
菅原道真公はその根底の大和心によって日本の歴史の大事な局面において学問を究めそれまでの初心道統を継ぎ、才を政治利用などせず、誠を貫き、その当時の人々だけではなく日本人に誇りと自信を甦生させた人物だったのかもしれません。
異なる文化が入ってくることは勉強になりますが、当たり前になっている自分たちの文化を軽視しその価値を忘れてしまうことほど多様性は失われていき文化は衰退していきます。
自分たちの根底に流れる文化を見つめ直しその文化の価値を温故知新し甦生させ続けてこそ一つの世界の中で人類の一員としてのお役目を果たしていけるようにも思います。そう考えてみればなぜ幕末に松平春嶽が城下の寺子屋に菅原道真公を祀り学問を奨励したかが直観できます。日本人として何を守り何を変えるか、それを忘れることのないようにという誠の学問を奨励し、本質を間違わないようにと先人の智慧を活用したからかもしれません。
私も今、まさに世界のために、日本のために、子どもたちのために変えてはならないものと変えなければならないものを分別し、何を守り何を新しくするかに没頭しています。まさに人類が才(文明)によって滅びそうな現実を目の当たりにしたとしても、決して留めおかまじ大和魂の思いです。正義を貫く勇気が欲しいと願えば時空を超えて先祖と邂逅します。
この菅原道真公が今もずっと私たちを見守ってくださっていると背中で感じつつ、残りの人生を本業に努め、初心伝承に命を懸けて挑んでいきたいと思います。
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学問の神様として今も毎年受験シーズンになると合格祈願のため参拝者が増すと、風物詩のようにニュースでも見かけます。道真公のことを知るにつれ、自分のお願いばかりすることが憚られます。ただ、今なお親しまれる偉業を成したからでもあるのだと感じます。自国の文化を今一度学んでいきたいと思います。
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日本人は、漢字や仏教など、さまざまな外国の文化を取り入れながらも、決して和魂を失いませんでした。その姿勢は、古いものを捨てて新しいものを採用したのではなく、また、劣ったものと優れたものを入れ替えたのでもありません。すべては、大和魂で和すための限りない執念と果てしない地道な努力の上に築かれたものです。このような歴史と文化の誇りをもう一度取り戻したいものです。
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どんな文化を作り、残して行くのかはその時代の人々がどんな生き方をして行ったかという歴史でもあることを思うと、自分自身がどんな生き方をしているのか、どう暮らしているのかを見つめる機会にもなります。子どもたちがどんな生き方、暮らし方を好むのかをこちらが決めることは出来ませんが、自分自身のことは決められるからこそ、機会に触れ、見つめていきたいと思います。
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「全体ファースト」という言葉がありますが、それはあくまで自が確立した上で成り立つものだと思っています。言葉だけで捉えてしまえばややもすると全体に迎合するだけにもなりかねません。そもそもの「大和」こそ、その言葉の意味するところだと受け取り、無用なものに惑わされず自分を修めていきたいと思います。