伝承というのは、語り継がれていくものです。日本にも古事記をはじめ様々な神話があります。また竹取物語のように日本最古の小説が今でも子どもたちに語り継がれているものもあります。
1000年を超えて語り継がれるというのは、そこに確かな真実や信仰があるからに他なりません。教えないで教えるという伝承という仕組みを少し深めてみようと思います。
伝承の仕組みというと難しくなりますがシンプルにいうと、教えてもらわなくても理解する仕組みであるとも言えます。私自身の体験では分からないものを教えてもらわなくてもわからないものがわかることがあります。これを直観ともいいますが、「そうか」と感じてつかむ感覚のことです。
好奇心から様々なものに触れている中で、ある時、こう使えばいいと実感するのです。それは水や火、土や石に触れるときになんとなく直観するのと似ていますし、最近、古民家甦生を通して日本古来の道具に触れていても用い方やなぜそうしたのかが好奇心で触れているうちに察知します。
この好奇心というのは、生まれたての子どもはみんな持っているもので大人になると次第に薄れていくともいわれます。私は好奇心が旺盛なので、なんでも不思議に感じてはそのものをそのままに理解しようと努めます。それを直観するという言い方をします。
単に知識で得ようとするのではなく、そのものに触れて得ようと思う感覚です。私は伝承はこういうものではないかと感じるのです。
例えば、炭を知ろうとすれば好奇心があまりない人は知識として簡単に木を燃やして灰を被せて火を消し炭化したものとするのでしょう。しかし私の場合は炭のことが知りたくて知りたくて好奇心が発動するため、何度も炭に触れようとします。そのうち炭には同じ炭がないこと、多様な炭の特性があること、炭の美しさがそれぞれで異なること、そして日々に火鉢で炭を燃やしていく中でその時の状況や気温、空気で全く異なる燃え方をすること。さらには温度の差や、そのものが持つ香り、灰、出すエネルギーの量など不思議で好奇心はさらに活動します。
私はこの伝承の仕組みとは、「真実を知ろうとする好奇心」のことでありこれがあるから生き物たちは教えずにして学ぶように思うのです。言い換えるのなら、好奇心が失われているから単に知識だけで分かった気になり、物事を学び深めようとしなくなるとも言えます。
人間として学問が永遠に輝き続ける理由は、この好奇心があるからです。
人が好奇心を持ち、学問をし、物事をなんでも好奇心で楽しんで深めていけば自ずから1000年前の物語にもアクセスし、その面白さを直観します。古事記や竹取物語がいつまでも語り継がれるのは、本質としてその面白さを私たちは好奇心が察知しているからでしょう。そしてそこに真実があり、信仰もまた生きています。
引き続き、教えない教育や場の教育を深め、風土を醸成する仕組みを開発していきたいと思います。
コメント
「知識で理解しよう」とすると、「説明できるようなもののとらえ方」をします。一方、「好奇心で触れる」場合には、自分が感覚としてわかる形で理解できるまで探求しようとします。何度も何度も聞かされることで伝わっていくものもありますが、伝える側の興味と、聞く側の興味の両方がかみ合わないことには、どこかで途切れてしまうでしょう。改めて「伝わり続ける」ということの凄さ、「千年も語り継がれる」という奇跡を感じます。
コメント
子ども心に響く内容や好奇心を掻き立てられる物語だからこそ受け継がれているように感じます。現代でいえばドラマのように大人同士の中で一時的に流行っても数年すれば内容を忘れてしまうこともありますが、子どもの頃に深く心に残ったものをまた次の子どもたちへ受け継ぐ、その繰り返しの1000年というのには驚かされます。感受性の強い乳幼児期を見守っていけるよう、自分自身が興味を持って物事を楽しむ自分でありたいと思います。
コメント
好奇心の塊の子どもたちと一緒にいると、その好奇心に自分たちが感化されることが多々あります。子どもたちに守られているようなそんな感覚さえあります。それぞれのらしさを見守る文化づくりは共生の価値観や貢献の価値観がやはり重要になって来るのだと感じます。何を伝承していきたいのか、そのために自分は何をするのか、日々振り返り立ち返り、歩んで行きたいと思います。
コメント
先日の七夕夕涼み会での子どもたちが射的に向かう姿は、ワクワクドキドキに溢れていて、どこまで自分が関わり、どこから自分で気づいてもらうべきか、その距離感などを考えながら接していました。まず「知りたい・やってみたい」の気持ちがあってものごとが深まり受け継がれていくことを思うと、理屈ばかりでそれが減退しないよう気をつけていきたいと思います。