人は磨き合うことで、お互いを活かしあうことができます。現代は競争社会といわれますが、それを他人との比較の中で優劣を決めて平均を割り出し誰かを裁くような競争ではなくそれぞれが自分自身を見つめ心を高め、徳を磨くような競争であれば世の中はより安心した豊かなものになっていくように思います。
「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」というのは切磋琢磨の意味ですが、常に心の磨き合いより徳を高めるような日々の錬磨はその人の人格を研ぎ澄ませていきます。
常岡一郎さんにこういう言葉が遺っています。
「いつまでも消えない希望、それはひとりひとりの人間が自分を正しく知ることである。自分をみがくことである。鍛えることである。向上させることである。徳高く、人格清く、心豊かな人になりたい。この願いは一切の苦難をたのしく超えさせる力となる。苦しみも磨きの恩師と思える。自分はつねに自分と共にいる。夜中でもよい。自分ひとりで本が読める。早朝に起きる。これもたのしめる。お互いに自らのみがき合いを競争する。勉学に、修養に、健康の道に、こんな希望の集団をつくる。それが美しい社会の基本となる。」
すべてのことを磨く機会にするという考え方はまさに切磋琢磨であろうと思います。苦難があればそれを磨く機会にし、歓びもまた、仕合せもまた、すべてを磨くためにあるとする。
体験そのものが自分を形成していきますから、どんなことをもって自分を磨こうかと常に機会を砥石にして内省していればすべてのご縁によって磨きがかかってきます。そしてそれを行う人たちが増えていけば、自ずから磨き合いができるようになってきます。
人によりここで磨き方も異なりますし、磨かれ方も異なります。その人たちと触れ合うことで自分の磨き方を修正し、さらに磨き方が見事な人の真似をし高めていくことができます。尊敬し合う関係の中で、人はより一層磨きがかかります。
どんな磨き方にせよ、磨くことが尊いという境地。
磨き合いというのは、その境地の中に存在しているように私は思います。この世に生まれてきた以上、磨き合うことは生きる意味でもあります。その生きる意味を学び、日々に心魂を磨いていけば一期一会の日々を暮らしていくことができます。
常岡さんが言う、「自分を正しく知る=自分を磨くことである」はまさに箴言です。もっとも一番身近にいる自分のことがわからないのが人間ですから、自分の心と向き合って自分を知りながら己に克っていければ自己を調和し、周囲とも調和していけるように思います。
引き続き、磨き合い徳を積めるように精進していきたいと思います。
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柱を磨くように力を入れないと磨かれていかないように、撫でたり、馴れ合っていては磨かれないのだと感じます。自分自身の力を込めて、力を使ってこそはじめて磨かれる一歩につながると思うと、機会の一つひとつを疎かにすることはできません。同時に自分に向き合うことは痛みも伴いますが、その度に新たな自分との出会いにもつながることを感じています。日々の実践の積み重ねを大事にしていきたいと思います。
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「切磋琢磨」には、磨きあげる前に、「切り、研ぎ、打ち叩く」という段階があります。「自分を磨く」といっても、その中身は、生易しいものではありません。「磨こうとする自分」と「磨かれる自分」の葛藤もあるでしょう。自分に都合のいい「磨き」にならないように、自己満足の「磨き」で終わらないように克己の工夫を重ねたいと思います。
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自分で自分を磨こうとすると、周りに迷惑が掛かることがあります。自分を周りのために役立てようとしたリ、傍を楽にしようとしたり、誰かの苦しみに寄り添ったり、磨かれ方ももいろいろとあるかと思いますが、エゴにならぬよう、ストイックになりすぎぬよう、楽しいより正しいを優先せぬよう、心緩やかに意識を保っていきたいと思います。
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先日のミマモリング会議の中での「カグヤは保育・教育の仕事だから、人格が育たないものを仕事と言っていいのか?」という話から「会社・自分がどう磨かれたか?」という情報共有や振り返りをしていこうという視点の転換は、とても大きな意味があるように思います。そもそもの目的がどこにあるのかを見誤らないようにしたいと思います。